分子栄養学とは
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1 分子栄養学とは
1 分子栄養学とは
分子栄養学だなどいわれると、聞いたことのない言葉として、耳にひびくことでしょう。恐らく、大方の人は、栄養物質について分子レベルで考える学問ではないか、と想像することでしょう。 私たちの口にはいる、パンも、バターも、味噌も、豆腐も、せんぶつめれば、全ては分子の集合体です。万物は分子の集合体なのですから、食品も例外ではないということです。
分子栄養学という言葉は、私の造語です。その言葉をつくった私は、分子栄養学の意味を、栄養物質を分子レベルで考える学問としたわけではありません。そんな考えなら、昔からあったわけで、いまさら、新しい言葉をつくるのは無用のわざです。
分子栄養学というからには、分子レベルの考え方がどこかにあるに違いないと、誰しも想像されることかと思います。その分子が栄養物質側のものでないことは、もうおわかりでしょう。それは、受入側の分子だったのです。
栄養物質を受入れるのは、いうまでもなく私たちの身体以外のものではありません。分子栄養学は、身体を分子レベルで考える栄養学のこと、と理解していただきたいと思います。
私たちの身体は、水分子もあります。タンパク分子もあります。リン脂質分子もあります。そういうものについての分子レベルで扱う科学も、昔からあったことで、いまさらとりたてるのはおかしなことです。分子栄養学の頭につけた分子は、そのような分子をさすものではありません。
分子生物学という新しい学問が誕生したのは1958年ですが、ここまで生体のことがわかってみれば、栄養学も書き換えられるベき運命にありました。分子栄養学とは、分子生物学によって書き換えられた栄養学という意味の命名なのです。
分子生物学とは、生物を分子レベルで考える生物学に違いありませんが、その分子の根幹におかれるのが遺伝子なのです。だから分子生物学というかわりに、遺伝子生物学といっても、不当ではありません。それと同じように、分子栄養学は、遺伝子栄養学といってよい内容をもった学問である。といっておきましょう。
私たちの身体は、遺伝子分子をかかえた分子の集合体です。栄養物質分子の受入側には、そういう特徴があるのです。
ここからすぐにわかることは、遺伝子のもつ要求にこたえることが、食品の条件だということです。分子栄養学の本領は、遺伝子をフルに活動させるのに必要な栄養物質は何と何か、めいめいにそれがどれだけいるか、の手がかりになる理論を提供するところにあるといっておきましょう。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.3」(1983年3月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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2 古典栄養学と分子栄養学
2 古典栄養学と分子栄養学
分子生物学を基盤とする栄養学。これが分子栄養学です。これを新しい栄養学とするならば、分子生物学以前のそれは、古い栄養学ということになるでしょう。これを私は「古典栄養学」とよびたいと思います。
古典栄養学は、食物を、熱や力のもとと考えるところから出発します。熱も力もエネルギーですから、古典栄養学では、食物をエネルギー源と考えます。そこで、カロリーというエネルギー単位を使って、食品の「栄養価」を割りだすことが柱になりました。
成人一日の摂取カロリーがいくらでなければならないという目安がたつと、こんな献立では栄養価が足りるとか、足りないとか、食生活について新しい観点がでてきました。これは、古典栄養学のおかげといってよいでしょう。
カロリー計算は、学校給食や病院食などで、栄養士さんの大切な仕事になっています。それはまた、アフリカ西岸諸国に対して、当面どれだけの食糧援助が必要か、というような計算の基礎を与えます。さらにまた、食事制限を必要とする糖尿病患者の献立をつくるのに、なくてはならないものとなっています。このような意味で、古典栄養学が、現在もなおその価値を失っていないことは確かです。
古典栄養学は、栄養素として、糖質・脂質・タンパク質の三者をあげ「三大栄養素」の考え方を全面におしだしました。栄養価をカロリーであらわす立場があれば、タンパク質はどうしても影がうすくなります。それにしても、三つの栄養素があれば、そのバランスはどうかという問題がおこるのは当然でした。「栄養のバランス」の概念は、そこから生まれたのでしょう。
栄養バランスの数字が一方にあり、総カロリー数が一方にあれば、糖質・脂質・タンパク質の一日必要量が算出されるわけです。そうしておいて、ビタミン・ミネラルをふくむ食品を献立に組みこめば、理想的な食事ができる、というのが古典栄養学の思想なのではないでしょうか。
分子栄養学の理論からすると、三大栄養素の筆頭にくるのがタンパク質になります。「タンパク質は生命をつくる」のです。だから、タンパク質の必要量は、カロリーとは無関係に、プロテインスコア100の良質タンパクとして体重の1000分の1とされます。これは必須の条件でして、糖質や脂質の量に左右されない数字なのです。
この例でおわかりのとおり、分子栄養学では、栄養素の絶対量に目をつけます。だから、栄養のバランスという考え方のでてくる余地はありません。これは、三大栄養素に限らず、ビタミンやミネラルなど全ての栄養素について、一貫しての主張となります。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.4」(1983年4月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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3 個体差の栄養学
3 個体差の栄養学
古典栄養学は、カロリー計算や栄養のバランスの主張となりました。そこには、ビタミンは潤滑油のような役割をもつ栄養物質であって、微量で足りるという考え方があります。これは極言すれば、私たちが生きていくための条件をもとめる科学にすぎないといえるでしょう。病気も寿命も体質も、そこでは問題にされません。
私どもの関心事は、生存の条件ではなく、能力の問題であり、老化の問題であり、病気の問題であるといってよいでしょう。それはつきつめてゆけば、体質の問題、個人差個体差の問題だと思います。ところが、古典栄養学は、ここまで切りこむ手段をもっていません。これに対して、分子栄養学は、人類共通の栄養条件をもとめるばかりでなく、一人一人の栄養条件をもとめる科学といってよいものです。それは、個体差に注目しつつ、人類全体を射程内にいれた栄養学なのです。
分子栄養学の分子は、遺伝子をさすものでした。周知のとおり、数十億といわれる人類のなかで、同一の遺伝子のセットをもつ人は、一卵性双生児以外にないのです。遺伝子に注目する栄養学は、一人一人を区別して、栄養面からみた個体差を問題にせざるをえません。そしてそこにこそ、分子栄養学の存在理由があるのです。
私たちのまわりを見わたすと、寝たきり老人もいます。朝から晩まで活動している人もいます。非行少年もいます。そうかと思うと、コンピューターを発明する人も、スペースシャトルの計算をする人もいます。ガンの研究をする人もいます。人それぞれに、能力に差があり、体力に差があり、健康レベルに差があります。そしてそれは、結局は個体差の問題になります。
このようなさまざまな面に個体差があっても、人間は人間です。その意味で、全ての人は古典栄養学の対象になります。しかし、このように巨大な個体差に目をつぶることは、現実的といえません。
私たちのあいだに、いくら大きな個体差はあっても、人間は人間です。その遺伝子は、人類の遺伝子なのです。私たちの生命活動は、遺伝子の完全な指揮下にあります。だから私たちは、鳥のまねもできず、魚のまねもできないのです。人間のやることは全て、人類の遺伝子の指揮下にあります。能力の個体差が存在することは、遺伝子の指揮が干渉的なものではなく、寛大であることを証明するものです。遺伝子の指揮下において、ベートーベンは交響曲を創作し、アインシュタインは相対性理論を発見したのです。
こんな例をあげるまでもなく、人間の個体差は莫大なものです。それは結局は遺伝子の違いと無関係ではありません。その個体差をその人の弱点にしないためにの栄養条件をもとめることが、分子栄養学の目的なのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.5」(1983年5月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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4 DNAは十人十色
4 DNAは十人十色
私たち人間の仲間を見ると、背の高い人もあり、背の低い人もあり、デブもあり、ヤセもあります。顔についても、丸顔の人もあり、角ばった顔もあり、鼻の高い人もあり、鼻の低い人もあります。髪の色、爪の形、目の大きさ、眉毛の形と、外見上の特徴となる要素は数えきれないほどたくさんあります。
私たちはまた、この外見上の特徴が、多少とも親ゆずりであることを、よく知っています。結局、これらの要素に、遺伝がからんでいることを認めない人はいないでしょう。
ここにとりあげた問題は、外見上の個体差というものです。その個体差が遺伝子レベルのものであることを、ここではっきりしたいと思います。遺伝子は、DNAという名の分子の上に並んでいるものですから、遺伝子レベルというかわりに、DNAレベルということができます。これからあとに、DNAという言葉がでてきたら、それは、遺伝子の意味、遺伝子群の意味にとっていただきましょう。
十人十色という伝承があります。これは、十人の人を集めれば、身体の形も、顔の形も心のすがたも、十色になることをいっているのです。それはつまり、人間には明白な個体差があるという事実を述べたことになります。それは、人間の遺伝子が、いやDNAが、十人いれば十色だ、というのと同じことになります。
外見上にこれだけのはっきりした個体差があるというのに、身体のなかの臓器に、あるいは細胞に、個体差がなかっとしたら、おかしいものでしょう。
一昨年のことですが、私の弟が皮膚の移植手術をうけました。移植した皮膚は彼のものでしたが、もしも私の皮膚を使ったとしたら、成功の可能性は、まずありません。弟の皮膚は、色が少し黒いこと以外の点で、私のものと外見上も機能上も違いません。しかし、その実質であるタンパク質に違いあります。だから、移植にはむかないのです。
皮膚は親ゆずりだから、兄弟のそれは同じでよさそうなものですが、それがそうではありません。皮膚の遺伝子DNAに、違いがあるからです。 私の親は、私にも弟にもDNAを譲りました。ところが、その譲る過程に突然変異がおきました。私がもらったDNAは、親のものを多少変化したものになっています。弟もそうですが、その変化した形が違うので、私と弟とで、DNAがちょっぴり違います。それが皮膚にあらわれたから、兄弟で皮膚の実質が違うことになるのです。
DNAの違いは皮膚にあらわれるだけではありません。全身にあらわれます。私の身体のどの部分も、弟に移植するわけにいかないのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.6」(1983年6月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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5 個体差はタンパク質の違い
5 個体差はタンパク質の違い
皮膚の移植手術は、やけどや、皮膚の手術のあとでは、よくおこなわれます。そのとき、移植する皮膚は、本人のものに限ります。もし、一卵性双生児の兄弟がいるのなら、その人のものを使うことができます。
私たちの身体は、いうまでもなく、自分のものです。自分の皮膚がどうにかなったのなら、修復のためには自分の皮膚をもってこなければなりません。 自分のものを「自己」というなら、ひとのものは「非自己」です。私たちの身体は、自己だけでかためるのが原則です。それはつまり、同じDNAをもった細胞でかためるのが原則、ということです。
自分の皮膚の細胞は、自分のDNAをもっています。ひとの皮膚の細胞は、その人のDNAをもっています。それはつまり非自己です。自分の身体は自分のものでかためるのが原則だとすれば、非自己はあくまでも排除しなければなりますまい。
このとき、植えつけられた皮膚が、自己であるか、それとも非自己であるかの判別が必要なわけでしょう。この判別は、DNAの違いをみるのではなく、タンパク質の違いをみるのです。人が違えば、皮膚のタンパク質も違います。そのタンパク質の違いによって、自己と非自己との区別がつくのです。非自己タンパクのことを「異種タンパク」といいます。私どもの身体は、異種タンパクを見分けて、それを排除するのです。
もうひとつの例をあげましょう。 腎臓が悪くなると、人工透析という方法で、血液の浄化をはかることは、ごぞんじのことと思います。人工透析がやっかいだといって、腎臓移植にふみきる人もいます。
腎臓の形はどうか、機能はどうか、などということは、教科書を見れば、すぐわかることです。それを見ると、腎臓は誰のものでも同じなことがわかります。しかしそれは、形や機能のことであって、その実質であるタンパク質は、人それぞれに違います。よその人の腎臓は異種のタンパクなのです。皮膚の移植と同じわけで、腎臓の移植も、有効な対策ぬきでは、失敗にきまっています。
ところで、非自己を排除する現象を「免疫」といいます。この免疫をおさえこまないことには、どんな移植も成功しないにきまっています。腎臓移植・心臓移植などでは、免疫抑制剤を使って、免疫能力を殺さなければなりません。そのために、抵抗力がダウンしてしまうので、風邪も命とりになりかねない身体ができあがります。
個体差の問題は、このように、身体のすみずみにおよんでいます。おたがいは、人間である点に違いはないのですが、身体の素材であるタンパク質は、どこからどこまでも違うのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.7」(1983年7月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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6 栄養条件もひとそれぞれ
6 栄養条件もひとそれぞれ
私たち一人びとりの人間は、顔かたちが十人十色であるばかりでなく、身体の内部のすみずみまでが十人十色だということが、もうおわかりのことと思います。私たちの身体は、親子であっても、兄弟であっても、その素材であるタンパク質に着目すれば、決して同じではありません。個体差は、頭のてっぺんから足の先まで、ついてまわるのです。そしてそれは、一人びとりのもっている遺伝子DNAの個体差からきているのです。
むろん、私たちはお互いに人間です。先祖はサルでも、いまはサルではなくて人間です。それは、私たちが、人類に特有なDNAをもっているからにほかなりません。私たちのDNAは、人類を特徴づけるDNAなのです。しかし、そのDNA分子の組成が一人びとり、少しずつ違っているのです。それが、タンパク質の違いとしてあらわれているということは、もうご存じのはずです。
タンパク質の分子は、20種のアミノ酸が鎖のようにつながった構造のものです。タンパク質の違いは、そのアミノ酸の配列や数の違いを意味します。誰の皮膚も、タンパク質でできていることに違いはありませんが、そのアミノ酸配列が、人ごとに違うのです。腎臓でも、目玉でも、みんなそれと同じことなのです。そしてそれは、DNAが人ごとに違うところからきています。
このあたりで私のいっていることは、分子栄養学の話ではありません。分子生物学の話なのです。しかしこのあたりから、話は分子栄養学につながってくるのです。
私たちの身体の素材であるタンパク質は、一人びとり違っています。そしてそれがフルに活動しなければ健康レベルがさがるとすると、事柄が単純でないことがわかります。生命の担い手がタンパク質であることが確かだとすると、そのタンパク質を活動させる条件に的をしぼる必要がでてきます。
タンパク質が、私たちの身体をつくる素材であることに間違いはないのですが、その重要なものは酵素の役目をもっています。名前でいえば、「酵素タンパク」というものです。その酵素タンパクのアミノ酸組成に個体差があることを、ここでは注意したいのです。
ここに、Aさんと、Bさんとがいます。この二人は、体重も、身長も、年も同じだとしましょう。それならば、同じ献立の食事を、同じ量だけ食べたら、二人の栄養条件は同じになるかというとそうではないはずです。 高い健康レベルを保つためには、酵素タンパクがフルに活動しなければなりません。栄養の補給は、そのためにあるわけですが、酵素タンパクが、AさんとBさんとで違うとすると、栄養物質の要求量が同じでよいはずがないではありませんか。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.8」(1983年8月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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7 ニュートリオロジー
7 ニュートリオロジー
ここまでの話で、分子栄養学というもののアウトラインはおわかりでしょう。それは、遺伝子栄養学、または、DNA栄養学といってよいもの、と私は考えます。
分子栄養学の主張のなかには、従来の栄養学を、古典的なもの、古いものとする思想があります。極端な言い方が許されるなら、古典栄養学は、科学の資格をそなえていない、と考えることができるでしょう。そのことは、古典栄養学の英語が、雄弁に告白していることです。
英語では、栄養学のことを「ニュートリション」といいます。ニュートリションとは栄養を意味する言葉です。英語では、栄養と栄養学とに、区別がありません。それはつまり、栄養学と日本でいわれるものが、学問になっていないことを証明するものといえましょう。
分子生物学という、新しい生物学が誕生して、全ての生命現象が、科学の光をまともにあびるようになった今日、栄養学がその恩恵に浴して悪いわけはありません。それはつまり、栄養学が、科学としての面目をととのえる時期にきた、ということです。
私の分子栄養学は、そこからきているので、まさに、科学としての資格を備えている、と私は考えます。そこで、この栄養学を、「ニュートリオロジー」と名付けたいと思っています。英語のスペルをついでに書けば、ニュートリションはNUTRITION、ニュートリオロジーはNUTRIOLOGYとなります。 ニュートリオロジーは、ニュートリションの語尾に「ロジー」をつけた形のものです。ロジーはロジックのことで、「論理」を意味します。学問というものは、一般に論理をもっているので、英語では、語尾をロジーとする学問がいくらもあります。その例は、生物学のバイオロジー、心理学のサイコロジー生態学のエコロジー、動物学のゾオロジー、人種学のエスノロジー、地質学のジオロジーなど、枚挙にいとまがありません。
いずれにしても、私たちがこれから勉強してゆく栄養学は、ニュートリションではなく、ニュートリオロジーでなければなるまい、と私は考えます。そのような意識の変革があって、はじめて、栄養物質と生命とのかかわり、栄養物質と健康とのかかわりが、論理的に、あるいは理論的に扱われることになるのです。 なお、ニュートリオロジーを、即、分子栄養学としてよいかどうかが、一つの問題になります。私としては、分子栄養学を「モレキュラーニュートリオロジー」とし、それを省略して、たんにニュートリオロジーということもできる、としたらよいかと思います。 この講座は、ニュートリオロジー講座ということになるでしょう。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.9」(1983年9月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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8 DNAとは
8 DNAとは
生命の支配者である遺伝子が、DNA分子のなかにあることは、すでに述べたところでした。DNAが人それぞれに違ったものであり、その個体差がタンパク質に反映していることも、ご存じのとおりです。 では、DNAは、どんなもので、どんな働きをするのでしょうか。
DNA分子は、繩梯子のような形をしています。この繩梯子の各ステップは、真ん中ではずれるようにできているので、チャックに似ています。チャックといえば、普通は布にとりつけられたものですが、布にあたる部分は、ここでは必要がありません。DNAは、はだかのチャックに似たもの、といったらよいでしょう。
はだかのチャックをねじった形が、DNA分子の形をあらわします。 チャックでは、両方からでた棒が、鍵になってひっかかっているでしょう。 その鍵が、次つぎにはずれたとき、チャックは開きます。
チャックでは、鍵のついた棒は、どれも同じ形をしています。ところが、DNAのチャックでは、鍵のついた棒が4種あって、A、C、G、Tと名前で区別されます。そして、AはT、CはG、とつながる相手がきまっているのです。ここのところが、DNAとチャックとの大きな違いになっています。もし、ACGTが四つに色わけされているとしたら、DNAのチャックは、自然の色模様をかもしだすことでしょう。Aをアンバー(コハク色)、Cをチャコール(炭色)、Gをグリーン(緑)、Tをタン(茶褐色)としておいたら、この四文字が色で覚えられて、便利かもしれません。
チャックというものは、きちんと閉じているのが正常の姿ですが、DNAの縄梯子も同じで、ふだんは、ステップの真ん中は、閉じています。そういう状態のDNAは、何の動きもしません。 もし私が、砂糖をなめたとします。すると、私の膵臓の細胞のなかにあるDNA分子のチャックの、ある部分が開くのです。
私たちがよく知っているチャックでは、端から端まで開くのが普通ですが、DNAのチャックは、一部しか開きません。それも、必要なときに開いて、必要がなくなればすぐに閉じてしまいます。 蔗糖が消化管にはいると、それは、ブドウ糖と果糖とに分解します。膵臓から小腸に分泌される膵液がふくむサッカラーゼという酵素の働きで、この分解がおきたのです。膵臓のDNAは、サッカラーゼをつくるために、チャックを開いたことになります。
一般に、DNAの縄梯子のステップがばらばらに開くのは、主として、酵素をつくる必要がおきたときなのです。もしこれが開かなければ、砂糖は消化吸収できないわけです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.10」(1983年10月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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9 RNAはDNAのコピー
9 RNAはDNAのコピー
DNAの縄梯子のステップは、アンバーとタン、チャコールとグリーンというぐあいに、組合わせがきまっています。ばらばらに開いたDNAの縄の一方を見ると、四色の棒が、のれんのようにたれています。この色模様は、実は、暗号になっているのです。
DNAの縄梯子が閉じているとき、暗号はかくれています。それが開いて、四色の棒がぶらぶらになっとき、暗号はあらわれるのです。分子栄養学ニュートリオロジーの話は、DNA分子が開裂して、遺伝暗号が露出するところからはじまります。
暗号というものは、解読されなければ意味がありません。そこで、「解読」が問題になりますが、そこまでゆくのには、いくつかの手続きがいります。 DNA分子が開裂して縄のれんの形になると、すぐに、そのコピーをとる「転写」がはじまります。それには、そのへんにうろうろしている、別種の色の棒が働くのです。
もともと、DNAのチャックをずたずたにばらすと、T字型の分子になります。この字の横棒は、デオキシリボースという糖と、リン酸とのつながったものです。そして縦棒は、前回述べたとおり、四色ありますが、化学物質としては塩基です。その名は、アデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)となっています。これを、アンバー(コハク)色、チャコール(炭色)、グリーン(緑)、タン(茶褐色)としたわけでした。
開裂した縄のれんの色の棒に引きよせられるのは、やはりT字型の分子ですが、このT字の横棒は、リボースという糖にリン酸がつながったものです。それが、次つぎに縄のれんの色のたれにくっついて、チャックを閉じたような形になります。そのときも、チャコールにはグリーンがくっつきますが、アンバーには、タンではなくウルトラマリーン(グンジョウ色、本名はウラシル)がくっつきます。
DNAののれんにくっついて、チャックを閉じる役目をするもう一つののれんをRNAといいます。DNAの塩基はACGTの四種だったのに、RNAの塩基はACGUの四種だということになりました。DNAのDは、デオキシリボースの頭文字、RNAのRは、リボースの頭文字です。
開裂したDNAの縄のれんにへばりついたRNAの縄のれんは、すぐここを離れます。すると、DNAはまたもとのように閉じて、縄梯子をつくって静まりかえってしまいます。 このとき、RNAの縄のれんが、DNAのコピーになっていることが、おわかりでしょうか。DNAのアンバーのたれにはウルトラマリーンが、チャコールのたれにはグリーンが、グリーンのたれにはチャコールが、ということは、色暗号を転写したことになっているのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.11」(1983年11月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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10 RNAの働きとリボゾーム
10 RNAの働きとリボゾーム
DNA分子の一部が開裂し、そこに露出した暗号を転写したRNA分子が生まれるという、おもしろい現象は、細胞の核のなかでおこりました。核は、核膜という膜につつまれていますが、そこには、小さな孔がいくつもあいています。その孔から、RNA分子は外にでるのです。
核をでたRNAのたどりつくところにはミクロゾーム(小胞体)という小器官です。 リボゾームには粗面小胞体、滑面小胞体の二種がありますが、いまは粗面小胞体のほうです。これは、ひだのある饅頭みたいな形のもので、表面に小さな雪だるまのようなものが、ゴマをまぶしたようにはりついています。この雪だるまの名前は、リボゾームです。これが、RNAがもってきた暗号を解読する装置なのです。
核をとびだしたRNAは、ミクロゾーム饅頭の表面に横たわります。すると、その上を、リボゾームがなぞるように動きだします。そして、RNAに転写された暗号を端から解読してゆくわけです。 RNA繩のれんのたれの色が、端から順に、アンバー、ウルトラマリーン、グリーン、チャコール、ウルトラマリーン、ウルトラマリーンだったとしましょう。この暗号は、三つが一組になっています。アンバー、ウルトラマリーン、グリーンはメチオニンの暗号です。チャコール、ウルトラマリーン、ウルトラマリーンはグルタミン酸の暗号です。メチオニンもグルタミン酸もアミノ酸なので、結局、DNAの暗号というのは、アミノ酸を指定するのが役目だったのです。
リボゾームという名の小さな雪だるまがRNAの繩のれんをなぞってゆくと、メチオニン、グルタミン酸というぐあいに、アミノ酸が次つぎにあらわれ、つながってゆきます。そしてそこに、タンパク質がつくりあげられるのです。アミノ酸の鎖は、タンパク質にほかならないからです。
前に、膵臓でサッカラーゼという蔗糖分解酵素がつくられることを記しましたが、この酵素の正体は、ただのタンパク質だったのです。膵臓の細胞核のなかのDNA分子のサッカラーゼ担当の部分が開裂し、そこでRNAへの転写がおこなわれ、そのRNAがミクロゾームへいって、サッカラーゼを合成したわけです。
ここまで読んで、一つの大切なことがおわかりのはずです。それは、DNAという親ゆずりの遺伝子の存在の価値をなくさないためには、タンパク質がどうしても必要、ということです。 私たちの口から入ったタンパク質は、タンパク分解酵素によってアミノ酸になります。それが、血液に運ばれ細胞に入って、リボゾームのところで、私たちに必要なタンパク質につくり変えられるのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.12」(1983年12月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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11 物理学を起点とした栄養学
11 物理学を起点とした栄養学
ここまでのところで、細胞とよばれる小さな生命単位のなかに、いくつかの小器官のあることがおわかりだと思います。核、ミクロゾーム、リボゾームなどがそれでした。細胞が生きていくためには、そのなかに、いろいろな働き手がなければなりません。それがつまり、「細胞内小器官」というものだと考えていただきましょう。
細胞内小器官の一つリボゾームが、雪だるまのような形をしていて、それが、RNAのもってきた暗号を解読し、アミノ酸を暗号にしたがってつないでゆく役目の装置だ、ということは、もうおわかりでしょう。 このリボゾームをばらばらな分子が自然に集合して、もとどおりの雪だるまの形を組み立ててしまうのです。しかもそのものには、暗号解読能力が、ちゃんと備わってもいます。
ここに煉瓦づくりの家があったとします。それを取り壊して、ばらばらな煉瓦の山にしたとして、それが自然にもとどおりの家に組み立てられたとしたら、それは魔法としか思えないでしょう。それが、細胞内小器官の一つリボゾームにおきたことなのです。
それから推測すると、さまざまな細胞内小器官が、このようにしてつくられたのでないか、全く物理的な力の働きでつくられたのではないか、と考える余地がでてきます。それならば、細胞そのものも、このような全く物理的な力で組み立てられるのではないか、遠くの人が考えるようになりました。それが正しいとすると、生命の神秘などというものは、雲散霧消せざるをえません。 もともと宇宙に生命はなく、無から有を生ずるがごとくに生物が誕生したという歴史を思えば、このリボゾームの奇跡は、何ら怪しむに足りない当然のことだといってよい、と私は考えます。それはまた、分子栄養学の基礎におかれるべき思想だ、と私は考えます。
すでに述べたとおり、分子栄養学の生みの親は分子生物学でした。そして、分子生物学は、物理学者クリックの頭からでたものでした。それは、生物学者や生化学者の頭からは、でることのできない性質のものでした。
生命現象を分子レベルで扱う生化学という科学は以前からもありました。それは、化学反応を中心においたものです。ところが、分子生物学は、化学反応の頭の上をこえて、暗号化された遺伝情報の解読から出発します。これは、従来の生物学や、生化学からの完全な離脱であり、発想の転換であります。 それと同様な発想の転換が、分子栄養学を誕生させました。そして、ニュートリションはニュートリオロジーに変貌したのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.13」(1984年1月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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12 新しい栄養学
12 新しい栄養学
新しい栄養学という言葉が、よく聞かれます。私の分子栄養学もその新しい栄養学の一つである、と主張することができるわけですが、いずれにしても、新しい栄養学の発想が、あちらにもこちらにもあらわれたという事実は、これまでの栄養学が信用を失ったことを証明するものでしょう。
この栄養学変事の転機となったのは栄養学の本家アメリカの上院で栄養問題特別委員会が、大規模な調査をおこない、その結果を公表したことにあると私は思います。これは、アメリカ国民に大きなショックを与えたと伝えられます。
この報告書の内容には、二つの顔があるようです。一つは、現行医学の批判、一つは食生活の批評としてよいでしょう。 現行医学にたいしては、医学が食生活と病気との関係を無視してきたことを批判しています。また、医者の栄養についての無知無関心を批判しています。そして、新しい医学は、細胞の栄養バランスに着目したものでなければならないといい、細胞の働きを分子レベルで問題にする分子矯正医学こそが新しい医学である、といっています。
ビタミンCとカゼ、ビタミンCとガンなどの関係の研究で知られるライナス=ポーリングが、分子矯正医学の提唱者です。彼は、特定のビタミンなどの不足からおこる病気を、それの大量投与によって治すことを考え、これに「分子矯正医学」という名前をつけました。こういうのが新しい医学だと報告書は述べているのです。
また一方、その報告書は、現代医学の最大の課題であるガンにもふれています。そして、アメリカでは毎年平均40万人がガンで死んでいるが、そのうち35万人は食生活に関連している、タンパク質、とくに動物タンパクを多く摂ると、ガンになりやすい、食物繊維を摂るとガンになりにくい、などといっています。そしてまた、デンプンを多くとる草食型の国民は総体的に健康だといい、アフリカ原住民の食生活に学ぶべきだ、などともいっているのです。
ここには、私たちのよく知っている自然食主義の思想がうかがわれます。これに力をえた指導者の一人に、パーボ=アイローラという人がいます。この人は、『ハウ ツー ゲット ウェル』(丈夫になるには)というベストセラーの著者として有名です。
アイローラは脳卒中で倒れました。享年68歳ということです。彼は肉や卵を嫌い、植物タンパクさえも制限して穀類を主食とする菜食主義に徹したあげく、平均寿命に達しない年齢でこの世を去りました。当初、その死因が交通事故とされたのも、栄養学博士の名が泣くからとの窮余の弁明というところでしょう。これは、まぎれもなく、自然食敗北の記録となりました。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.14」(1984年2月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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13 自然食主義の落とし穴
13 自然食主義の落とし穴
アメリカの上院の栄養問題特別委員会は、医学界、栄養学界に大きな衝撃を与える歴史的なものになりました。それは、医学にたいしては、分子矯正医学という新しい道を示しました。そして、栄養学にたいしては、食生活の見直しをもとめました。そこから、パーボ=アイローラのような自然食主義者がでてくることになりました。自然食の悲劇は、前回で紹介したとおりです。
皆様もうご存じのとおり、分子栄養学では栄養素のトップにタンパク質をおきます。タンパク質が不足すれば、親ゆずりのせっかくの遺伝子が活動を阻害されるわけでしょう。低タンパク食は、動脈硬化・高血圧などを約束するわけですから、アイローラを脳卒中に追い込んだことに不思議はありません。
アメリカの上院特別委員会の報告には、文明国の食生活は間違っている、20世紀初頭の食生活にもどれ、などというような主張があります。これが彼が委員会に影響を与えたのか、私には見当はつきませんが、両者のあいだに一脈つうじる点のあることは確かです。
自然食主義には、理論的根拠がありません。根拠を与えようとすれば、どうしても、屁理屈をこねなければならなくなります。その例は、わが国の自然食主義の元祖桜沢如一氏の陰陽説です。これは、『食養学原論』にくわしく説明されていますが、そのあらましは、私の『健康食総点検』で理解して頂けると思います。 彼は、ナトリウム・カリウムを陰陽の実体とする物活説を展開します。物活説とは、万物に生命ありとする原始的な思想であって、いま通用するはずのないものですが、現実には、まだその信奉者がわが国にも少なくないのが実情です。
パーボ=アイローラの場合にもその菜食を中心とする自然食主義に、根拠がないわけではありません。彼は、穀類・野菜類の食物繊維に異常な執着を見せています。そのことは、彼の著者『ハイポグリセミア』(低血糖症)によくあらわれています。彼は、食物繊維に重きをおく一方、例の報告書にあるように、タンパク質を敬遠する態度にでました。食物繊維をせっせと食べたことは糖尿病や胃腸障害の予防には有利だったに違いありませんが、低タンパク食は、何といっても致命的でした。
私たちの生命現象をトータルに見た場合、食物繊維のような特殊な物質に着目することは、重大な偏向としなければなりません。木を見て森を見ず、というこことになってしまいます。いわゆる新しい栄養学には、とかくこのような落とし穴がついてまわります。
生命について、健康について考えるとき、私達は遺伝子にまでさかのぼらなければならないのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.15」(1984年3月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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14 メガビタミン主義
14 メガビタミン主義
アメリカ上院栄養学特別委員会の報告書が、自然食指向一辺倒であったわけではありません。それはビタミン・ミネラルについてもふれています。その趣旨は、普通の食事では、ビタミン・ミネラルが不足する、ということです。これは、いわゆるメガビタミン主義の路線をこわすものでした。メガビタミン主義と自然食主義とは、私にいわせれば正反対のものですが、この二つが同居させられているところに、委員会の弱体振りがあらわれているといわなければなりますまい。
いずれにせよ、そこには、今日のメガビタミン主義の萌芽があらわれているのです。 メガビタミン主義という言葉は、コッフェルの造語ですが、それは恐らく1970年代のことでしょう。しかし、その言葉がつくられるより前から、ビタミンの大量投与はおこなわれていた、とみることができます。
ハーレル夫人は、すでに1940年代に、知恵おくれの子供に、各種ビタミン・ミネラルの大量投与を試みました。そして、めざましい効果を見ています。このことは、私の『頭がよくなるビタミン革命』に紹介しておきました。
恐らくその当時から、カゼの予防や治療に、ビタミンCの大量投与をやってみる医師が、あちこちにいただろうと思います。カナダのシュートのように、ビタミンE一点張りで、心臓病に取組んだ医師もいます。 メガビタミン主義が、広く世界の注目をひくようになったのは、科学界の巨星ポーリングの力だと思います。彼は、カナダの精神科医が、精神分裂患者にニコチン酸の大量投与をおこなっているのを見て、ビタミン大量投与に興味をもったと伝えられています。これは、1965年頃のことのようです。
私が、自分自身の白内障の対策として、また健康法として、ビタミンC、ビタミンB群の大量摂取をはじめたのも1961年のことですから、新しいことではありません。当時はまだ、分子生物学が世に知られていませんでしたから、メガビタミン主義の理論づけは、もっと後になります。
例の報告書が生んだメガビタミン主義者の一人に、ミンデルがいます。彼の『ビタミンバイブル』は、世界的なベストセラーになりました。この本をお読みの方はおわかりのように、彼のメガビタミン主義は、全く経験的なもの、といっても過言ではありません。そこには、とくに理論はないのです。それは、タンパク質を強調しないことから明らか、といってよいでしょう。 ご存じのとおり、アメリカ上院栄養問題特別委員会のご報告書は矛盾にみちたものです。
なぜそうなったのかといえば、そこに理論がなかったから、といわざるをえません。栄養について、食生活について語るとき、その土台に理論がなくてはならないのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.16」(1984年4月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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15 分子矯正栄養学
15 分子矯正栄養学
アメリカ上院栄養問題特別委員会報告書という歴史的文書の批判をとおして、従来の栄養学も、いわゆる新しい栄養学も、理論の柱がないために、矛盾をはらみ、説得力に欠けることを明らかにしてきました。そこで、栄養学の理論の基礎をどこにおくべきか、という問題にぶつかります。しかし、分子生物学という、生命の根本をにぎる科学が誕生した今日、栄養学の基礎に分子生物学がおかれなければならないことは、疑問の余地のないところだ、と私は思います。私の分子栄養学がそこから生まれたことは、もう説明する必要はありますまい。
言葉のうえで、分子栄養学とよく似たものに、分子矯正医学があります。それについては、例の報告書もふれているわけですが、ポーリングは最近、これを分子矯正栄養学に改名しました。言葉のうえで似ているといったのは、この分子矯正栄養学のことです。日本ではこれを、分子整合栄養学と訳す人があらわれました。
分子矯正栄養学、分子栄養学は同じものなのでしょうか。違うとすれば、どこが違うのでしょうか。
分子矯正医学の提唱者ポーリングは、特定の栄養素の分子濃度が低いことからくる病気があること、その病気は、分子濃度を高めることによってなおることを主張しました。そして、そのような治療法をとる医学を、分子矯正医学としたのでした。考えてみれば、それは医療手段というよりも、栄養補給といったほうが適切です。そこで彼は、分子矯正医学を、分子矯正栄養学に改称したのだと思います。
ここまでの説明でおわかりのとおり、分子矯正栄養学のいう「分子」は、ビタミンなどの栄養素の分子以外のものではありません。したがって、分子矯正栄養学の本質は、われわれが問題にしている分子生物学とは、いささかのかかわりもないわけです。そういっては悪いけど、分子矯正栄養学の理論は、きわめて浅いところにしかありません。でも、それは分子矯正栄養学の実用的価値をそこなうことにはならないのです。分子矯正栄養学は、一つの実学といえるでしょう。分子整合栄養学についてもこれと同じことがいえるわけです。結局、分子矯正栄養学も分子整合栄養学もDNAレベル、遺伝子レベルの科学ではありません。それは、分子栄養学とは全く違う次元の学問なのです。
分子栄養学は、DNAレベル、遺伝子レベルの栄養学であるという意味において、古典栄養学とも違い、アメリカ上院栄養問題特別報告書が誘発したもろもろの新しい栄養学とも違います。そして、分子栄養学こそが、二十世紀後半の科学の進歩に対応する、今日的理論をもつ唯一の栄養学であるといえるのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.17」(1984年5月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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16 私が白内障になった理由
16 私が白内障になった理由
ここまでの話で、分子栄養学がほかの栄養学と比較して、独特なものであることが、おわかりになったと思います。そこには、ちゃんと理論もあり、実際的な方法もある、ということです。その具体的なことは、『分子栄養学の理論と実際』を見て、納得して頂きたいと思います。
分子栄養学に関する私の理論は、いくつかありますが、その最初のものは、分子生物学と無関係です。それは、私が分子生物学を知らない時期にえたものだからです。
1961年、私は白内障との診断をうけました。このとき私は、文献をあさって、この眼病の原因がビタミンCの不足である、と書いたものにぶつかりました。それを100パーセント信用したわけではありませんが、わたしはそれについて、いろいろと思いめぐらしました。
まず第一に考えたことは、私はなぜ白内障にならなければならなかったのか、という問題です。その問題を抱えながら、私は早速ビタミンCの注射をはじめました。注射の手数は同じことなので、5ミリリットルの注射筒に、ビタミンB群をいっしょにすることにしました。
当時、ビタミンCの薬剤は普及していません。だから、日常的にビタミンCを補給している人などは、いないはずです。それなのに私だけがそれの不足になった理由について、私は、自分がとくに大量のビタミンCを必要とする体質なのだ、と考えました。友人のK医博は、目玉の血流量がすくないのだろう、といいました。
私は、注射と平行して、目玉の体操を工夫しました。それは、血流量を増やす方法として有効なはずでした。この目玉の体操については『日常生活の健康情報』に紹介があります。その体操は、眼筋をきたえて、血管を太くするのがねらいでした。
目玉の体操は、近視や老眼にもよいことがわかり、テレビに引っぱりだされる一幕もありました。とにかく、ビタミンCと目玉の体操とで、私の白内障が快方にむかったことは事実です。 ところで、私がとくに大量のビタミンCを必要とする体質である、という私の見解は棚あげのままでした。それについての1つの仮説を私が思いついたのは、翌1962年のことでした。それは、次のようなものです。
ビタミンCの持ち場はいくつもあるでしょう。その持ち場には、優先順位があるでしょう。私は、白内障になっても、壊血病にはかかっていません。そこで、抗壊血病作用が抗白内障作用に優先した、と考えることができるでしょう。ビタミンCのいくつかの作用の優先順位の点で、私の場合、抗白内障作用が、かなり下位にあるのでしょう。 それが私の考えの発端でした。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.18」(1984年6月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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17 カスケード理論
17 カスケード理論
ビタミンCにいくつもの作用があって、その優先順位が人によって違うという仮説を説明するために、私は、目に見えるようなモデルを工夫しました。
私は、頭のなかに一つの段々滝を描きました。階段のようになった滝に、上から水が落ちてきます。その水は、一つ一つ段々をおりてゆくはずです。その段々に、いくぶんでも水がしみると、するといちばん下の段まで水が落ちるためには、水量が十分なければなりますまい。水量が不十分ならば水は途中の段までしか落ちないでしょう。
このモデルに対して、私は、カスケード理論という名前をつけました。カスケードというのは、段々滝のことです。私は、このモデルを思いついて、私の白内障の説明がついたことで、悦にいっていました。 どうして白内障の説明がついたと考えたかというと、それはこういうわけです。
カスケードを流れ落ちるというのは、いうまでもなく水です。しかし、私のカスケードは、水のカスケードではなく、ビタミンのカスケードです。そしていまそれは、ビタミンCのカスケードです。このカスケードは頭のなかのものですから、流れ落ちるものが水でなくたって、少しも困りません。ビタミンCが水に溶けていなくても、さしつかえはないのです。
カスケードの段々の数について、私はよくわかりませんが、仮にそれを5段としましょう。ビタミンCの抗白内障作用が、私の場合には5段目、家内の場合は2段目だったとします。2段目まで滝が落ちてくるのは、5段目までとくらべれば、楽なことです。ビタミンCの量がとくに多くないとき、2段目までなら水が落ちてきても、5段目は無理、というケースがあるに違いありません。
私の家の食事は、とくにビタミンCをたっぷりとるかたちのものとはいえませんでした。とするなら、抗白内障作用を5段目にもっている私が、家内よりもこの眼病にかかる確率が高いことになるでしょう。 これが、私の白内障を説明する手がかりを与えようとして思いついたカスケード理論でした。これをとくに「理論」と名付けるのはおおげさすぎるかもしれません。理論と名の付くほどものではないのです。それなのに、カスケード理論などというのは、これが、私にとっては、自分がことさらに白内障になったと理由を説明する1つの理論になる、と考えたからにほかなりません。
ここで私は、カスケードの段々に水がしみるといいました。しかし、なぜ水がしみなければならないかという点について、とことんまで考えることはしませんでした。この問題についての仮説をたてることができたのは、私が分子生物学を知ってからのことなので、1981年頃のことになります。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.19」(1984年7月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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18 代謝と酵素
18 代謝と酵素
私のカスケード理論の原型は、ごくごく荒けずりのものでした。カスケードの段々に、水が浸みこむといいました。それは、ビタミンが浸みこむということですから、浸みこんだビタミンがどうなるかが問われているはずです。
もし、実際の段々滝で水が浸みこむとしたら、段々をつくっている岩に、割れ目があるとか、こまかい孔があるとか、そういったことがなければなりません。そしてそこで、水は損失になるはずです。ビタミンならば、それがロスにならなければ、つじつまがあわなくなるでしょう。
ビタミンCには壊血病を防ぐといったような、積極的な作用があるはずです。 風邪を防いだり治したりする作用もあるはずです。 もっとも、1962年頃とすれば、ビタミンCについての知見は、これが精一杯で、ほとんどゼロに等しいものでした。
それにしても、このような積極的な作用を例えるのに、水が岩に浸みこむとするのはほめたことではないでしょう。 分子生物学を知ってからの私は、段々に落ちる水の行方について、漏斗を考えるようになりました。漏斗に落ちる水には、損失ではなく、積極的な作用をもたせようとしたわけです。積極的な作用とはなにかといえば、もちろん代謝です。
代謝の説明は、ここでは省きたいと思いますが、念のために一言しておきます。代謝とは、生物の体内で、遺伝子の指令によっておきる化学反応のことです。 生体の温度は37度前後の低いものですから、そこでの化学反応は特別な条件がなければ難しいことになります。特別な条件とは、反応のなかだちをする物質、つまり、酵素の存在です。代謝は全て、原則として、酵素のなかだちによっておこるのです。
酵素の主成分を主酵素といいますが、これはタンパク質です。そこで、代謝にとって何より大事なものはタンパク質ということになります。
ビタミンCのカスケードの話にもどりましょう。そのどこかの段が代謝にかかわっているとします。すると、そこには漏斗があるはずでした。その漏斗がタンパク質でできているとすれば、話はうまくゆくでしょう。上から落ちてくる水が、その漏斗に入れば、代謝がおこる、と考えるのです。
ところが、代謝というものは物質の運動ですから、運動をおこすものをここにもってくれば好都合です。そこで私は、漏斗を落ちる水で、廻る水車を考えました。タンパク質の漏斗にビタミンの水が流れこめば、それが代謝という名の水車をまわす、と考えるのです。 カスケードを落ちる水は、岩に浸みこんだり、水車をまわしたりすることになります。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.20」(1984年8月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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19 優先順位は個体差
19 優先順位は個体差
カスケード理論では、タンパク質でできた漏斗に、ビタミンの水が流れこみ、落ちる水が、代謝という名の水車をまわすわけです。すると、タンパク質とビタミンとは、漏斗と水の関係になります。その関係は、たまたまそう考えただけかというと、そんなことではありません。そこには、必然的な、切っても切れない関係があるのです。
もうご存じのとおり、タンパク質は代謝を媒介する酵素の主成分です。これは、主酵素とよばれます。ここでわかることは、タンパク質だけで酵素ができているわけではないということです。酵素は、一般的に、タンパク質と、非タンパク質とからできています。タンパク部分は「主酵素」、非タンパク部分は「助酵素」とよばれます。ビタミンは非タンパク部分ですから、助酵素にあたるのです。
カスケード理論では主酵素で漏斗をつくり、助酵素をそこに流れこむ水にしました。漏斗と水とのどちらが欠けても、水車はまわらない、という関係をつくったわけです。このことから、タンパク質がなくても、ビタミンがなくても、代謝はおこらないという関係がわかると思います。そしてこれは、分子栄養学で強調する点なのです。
ところで、漏斗と水車のセットは、カスケードの段々の一つひとつにあります。その例として、抗壊血病作用の水車と、抗白内障作用の水車とをとることにしましょう。無論そこには、この二つの作用が代謝による、という仮定がなければなりません。
ここでおこる大きな問題は、二つの水車のどちらが上位にあるかという、優先順位の問題だということは、もうおわかりでしょう。そしてそれが、人によって違うだろうというのが、私の考え方でした。 漏斗というものには、管の部分がつきものです。その管には、太いものも細いものもあるでしょう。その細いものが上位にある、と私は考えます。なぜかというと、太いものが上位にあれば、滝の水が下まで落ちてゆくことが難しくなります。無論、水量がたっぷりとないという前提のもとにおいてですけれど。
これと反対に、管の細い漏斗があれば、水が下へおりるのが楽になるでしょう。カスケードの最下段まで、水が下へおりることが理想だとすれば、管の細い漏斗ほど上位にあるのがよいことになります。それは、「生体の合目的性」にかなうことだ、と私は考えます。無論、それについての説明には別のアプローチもあるのですが、それはあとに譲りたいと思います。
このように考えると、私のビタミンCの抗白内障作用の漏斗は、人並みより太いので下位にあった、と考えることができます。家内のそれは、私ほど太くないので、白内障にならない、という説明になります。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.21」(1984年9月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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20 ビタミン必要量の考え方
20 ビタミン必要量の考え方
カスケードの各段にある漏斗の太さを問題にしてきました。その太さは、何によって決まると考えたらよいでしょうか。
管が太いということは、ビタミンがたくさん必要なことを意味します。そこで、同じ代謝に、ビタミンがたくさん必要な場合、少しも良い場合があるのか、が問題になります。結論から先にいえば、「ある」というのが私の意見です。
酵素というものが、主酵素と助酵素と、二つの部分をもっていることは、もうご承知でした。主酵素はタンパク質で、その製法は、親から教わっています。これはいわゆる遺伝の現象なのですが遺伝子というものは、十人十色の主酵素に助酵素であるビタミンが結合するわけですから、その結合に難易の違いがあって、不思議はないのです。ある人は、その仲が悪いという事態は、珍しくないはずです。
主酵素と助酵素との仲が悪いとき、その結合体である酵素をつくるのに、助酵素がたくさん必要です。そういう場合、漏斗の管が太くなければならないことになるでしょう。漏斗の管の太さは、主酵素と助酵素との仲の良さで決まるといってよいのです。その仲の良さを「親和力」という言葉で表すことにします。カスケードの漏斗に管の直径は、主酵素と助酵素との親和力が小さいほど大きいことになります。漏斗の太さは親和力で決まるといってよいのです。
ビタミンCが口から入ると、それは、血液に運ばれて全身にゆきわたるでしょう。そして、その持場にくれば、そこで働きを表すわけです。そのとき、現実に働きを表すのは、まず、ビタミンCが少量ですむ持場でしょう。それはつまり、親和力の大きい酵素が優先するということです。優先するということは、あとまわしにならないことを意味します。少量ですむところがあとまわしになるはずはないではありませんか。これはつまり、親和力の大きい酵素による代謝、つまり、管の太い漏斗が上位にくることを意味するのです。
生体の合目的性からしても、親和力の点からしても、カスケードの上下関係について、同じ結論が導かれることになりました。 主酵素と助酵素との親和力には個体差があります。一人びとり違います。だから、ある特定の代謝が、Aさんではかなり上位にあるのに、Bさんではずっと下位にある、というようなことがおこるに違いありません。
ビタミンCばかりではなく、全てのビタミンに、そして、全ての助酵素について、私はカスケードを想定したいと思っています。この理論は、ビタミンの必要量を考えるうえで、大きな助けになるのです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.22」(1984年10月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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21 ビタミンCを十分に摂る理由
21 ビタミンCを十分に摂る理由
カスケードの水車の例として、これまで、抗壊血病作用と抗白内障作用とをとってきました。しかし、後者にはちょっと問題があるので、ここで、具体例を改めて、インターフェロン合成作用とコーチゾン合成作用をとることにします。インターフェロンは抗ウイルス因子のこと、コーチゾンは、副腎皮質ホルモンの代表の意味です。
インターフェロン合成も、コーチゾン合成も代謝過程ですから、カスケードでは、それぞれに水車をもつことになります。むろん、それぞれに漏斗もついています。漏斗の材料は、インターフェロン合成の主酵素となるタンパク質、コーチゾン合成の主酵素となるタンパク質、ということになります。そして、ビタミンCは、両者に共通な助酵素、ということになります。
この二つの漏斗のカスケード上の順位は、人によって違うと考えることにします。そして、Aさんでは、インターフェロンが上位に、Bさんでは、コーチゾンが上位と、互いに逆の関係にあったとしましょう。
ビタミンCが大量にあれば別ですが、ご両人とも、それが不十分だったとします。すると、Aさんは、インターフェロンはつくりやすいけど、コーチゾンはつくりにくいことになります。そこでAさんは、風邪はなかなかひかないかわりに、ストレスには弱い身体の持主ということになります。風邪はウイルス感染症、コーチゾンは抗ストレス因子だからです。 これと反対に、Bさんは、ストレスには強いけど、風邪はひきやすい身体の持主ということになります。
もし、AさんもBさんも、ビタミンCを十分にとれば、二人は、風邪にかかりにくく、ストレスに強い身体をもつことができるでしょう。ところが、ビタミンCが不足したことになると、前記のような弱点があらわれることになります。これは体質上の弱点といえるものですけど、その弱点がビタミンCの大量投与でカバーできるということです。逆にいえば、体質上の弱点は、ビタミンCが不足のとき、一般的にいえば、助酵素が不足のときにあらわれる、と考えてよいのです。
前に、漏斗の管の太さが親和力で決まるといいました。しかし例えば、ウイルスがいないときには、インターフェロン合成の必要はないわけですから、漏斗に水が流れこむこともいりません。そこで、管にはコックをつけることにします。ウイルスがいないとき、インターフェロンのコックは閉じています。
ストレスが強いと、そのコックが全開します。するとBさんの場合、インターフェロンに落ちる水がなくなりがちです。それで、すぐに風邪をひくことになります。過労のとき風邪をひきやすい人は、Bさんのようなケースだと思います。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.23」(1984年11月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。
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22 活性酸素とビタミンC
22 活性酸素とビタミンC
カスケード理論では、段々の滝の各段に漏斗をおきました。その漏斗には、主酵素と助酵素との親和力で太さの決まる管がついていました。管から落ちる水で廻る水車がありました。太い管からは大量の水が落ちます。すると、太い管の下の水車は、回転しにくく、たっぷり水がないと、勢いよく廻らない、と考えたらよいでしょう。
ところで、この管にはコックがついていました。ウイルスがいなければ、インターフェロンをつくる必要はありません。ストレスがなければ、コーチゾーンをつくる必要はありません。そこで、コーチゾーンのコックは閉じています。
カスケードではたくさんの水車が廻っているわけですが、なかには休んでいるものもあります。上位の水車が休めば、下位の水車はそれだけで有利になります。 カスケード理論の説明の最初のころ、岩に浸みこむ水についてふれました。浸みこんだ水は水車をまわしませんから、それは、代謝にとっては損失になります。岩に浸みこむ水が少ないことは、代謝にとって有利な条件になるわけでしょう。
岩に浸みこむ水が、全てムダなものとはいえません。ビタミンが有利な働きをあらわさずに分解してしまえば、それはムダになります。しかしそれが、代謝と無関係な働きをあらわすことも、大いにあります。それは、ビタミンCについていえば、活性酸素という名の毒物の除去です。岩に浸みこむ水が、活性酸素を洗い流してくれる、と考えるのです。
活性酸素は大気中にも少し含まれいますが、エネルギーをつくるとき、炎症があるときなどには、体内で発生します。これは、組織を痛めるし、発ガンの契機にもなります。それを除去することは、生体防御のうえでの必須の条件になります。
私の白内障をとりあげたとき、ビタミンCの抗白内障作用という言葉をだしました。白内障は、恐らく活性酸素中毒ですから、抗白内障作用イコール活性酸素の除去法であるかもしれません。とすれば、それは岩に浸みいる水のしわざで、水車とは無関係になります。
もっとも私たちの身体は、「活性酸素除去酵素」を自前でつくります。これは代謝の産物ですから、水車の回転を必要とします。 その代謝の助酵素としてビタミンCが位置づけられる可能性は小さくないと思います。もしそれが正しいとすれば、ビタミンCは、活性酸素退治に二役をつとめる立役者ということになるでしょう。
ビタミンCのカスケードでは、それが水車をまわして働き、岩に浸みこんで働き、というわけです。ビタミンの種類によっては、岩に浸みこんだものが全て損失になる、ということもあるはずです。
*この文章は三石巌が会報誌「メグビーインフォメーションVol.24」(1984年12月号)に初めて分子栄養学を勉強される方へ向けて書いたものです。