長年愛用いただいているお客様と弊社代表笹木多恵子との対談。
第17回半田 節子 様 三石理論研究所 (86歳)
笹木 今日は強風で電車が止まってしまうかと心配しましたけれど、来て頂けてよかったです。
半田 対談ということなんだけれど、何から話してもいいの?
やっぱり津田塾での出会いからお願いします。
半田 私は記憶の悪い人間でよく覚えていないの。
笹木 そんな事言ったら、記憶力のいい人は居ないことになってしまうわ。(笑)
半田 何を話したらいいかと、ここに来る電車の中で考えてみたのよ。
最近、夏目漱石を何冊か読みなおしているんだけれど、「心」の中で主人公“私”が先生と尊敬する人が出てくるでしょ?
誰でも自分にとって先生と呼ぶべき人に出会うと思うけれど、三石先生が永田先生を尊敬してらしたように、私は紛れも無く三石先生なのよ。
知識を伝えてくださる先生という意味ではなくて、生き方そのものにかかわってくださった先生なんだな、と思いますね。
笹木 そう思える人に出会えたことは幸せなことですよね。
半田 そうよね。津田時代は不勉強で先生には近寄らない人間だったんですよ。(笑)
でも、他の先生とは違って、三石先生には生活に即した物理を教えて頂いたことが印象に残っていますね。
例えばアイロンをかけていると、アイロンが熱くなるのは分子の熱運動だ。と先生が話されたことを思い出すの。そんな風に生活の中の科学を教えて頂いたから、ずっと心に残っていたと思うんです。
ひとことで言うなら、何かを考える時に「先生はこうおっしゃったな。」とか、「先生ならどのようにお考えかな。」ということを物差しにして考えている。
私にとって、三石先生はそういう意味での先生だと思うんです。
笹木 就職したのは出版関係でしたよね?
半田 先生は就職に関してとても面倒見が良かったんですよ。私は成績も悪かったし、それまでは先生に近づきもしなかったのに、みんなに付いて行って「就職お願いします。」なんてお願いしたんですよ。
ずっと後になって「何しに来たんだろうと思った。」と言われちゃって(笑)
それでも中教出版(旧:中等教科書出版)に入れて頂いたのよ。先生は中教出版で教科書を書いていらしたのよね。
笹木 あの頃のことはよく覚えています。忙しくて朝は迎えの車が来て、もっと忙しくなるとホテルに缶詰になって何日も帰れませんでした。
理科の教科書を書く人は父しかいなかったそうで、ものすごく忙しくて、急に白髪になったみたいです。
半田 先生に中教出版に入れて頂いたお陰で、半田と出会えたのよね。
笹木 そうそう、職場結婚ですものね。
半田 そうなの。本当に人生の道筋を付けて頂いたことになるわね。
そこでは著名な方たちをまじかに見ることが出来たし、川端康成のところに原稿を取りに行ったこともあるのよ!簡単に貰うだけで帰って来たなんて・・・って、今になって思うわよね。(笑)
笹木 凄い!確かに今思えば残念でしたね。
半田 もともと本は好きだったけれど、そこで本作りの人たちと知り合って、それが今の“インフォメーション”を書くことに繋がっていると思いますね。
面白く仕事をしてたのに仕事に対する自覚が無くて、結婚するのですぐにやめてしまったのね。それでも2年位はいたかしら。
自覚さえあれば、いろいろなことを吸収できる立場にたたせて頂いていたのにね。
結婚してからは二人の男の子を育て、両方の親の介護をしてきました。
その間に子供のPTAの役員を幼稚園から中学までやることになって、それが終ったら、世田谷の青少年委員を、という具合でした。
青少年委員は勤労青年のお世話でしたが、区の社会教育の人たちとかかわることになって、時折“社会教育”という雑誌に原稿を書いたりしていました。
そこで最初に対談(2013年2月)なさった長谷川さんと知り合ったのよ。
先生にお見せした“社会教育”の原稿や、中教出版での仕事からC社で広報担当を探しているからどうかと、先生が声を掛けてくださったと思いますね。
それが、夫が亡くなった一年後でした。
笹木 亡くなったばかりだったんですね。
半田 その前にクラス会があって、私の顔を見てタンパク質が足りないと思ったって。(笑)
その後、広報の仕事をしてみないかって言われたので「私には出来ません。」て、答えたの。そうしたら「出来ると思うから言ったんですよ。」と、そういう言い方をなさったの。
そのひとことが、今の私に方向付けてくださったことになりますね。
知識も経験も無くて飛び込んだのがサプリメント業界のひとつ、C社ですけれど、そこでは違った意味での社会勉強をしました。
ちょうどその頃、講談社から「高タンパク健康法」「ビタミンE健康法」「ビタミンC健康法」なんかが出た頃だったので、業界の人たちが先生に目を付けたんですね。
計算高い人達とかいろいろな人たちが先生の周辺に集まってきましたよね。
笹木 業界は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界だと表現していましたが、翻弄させられた時期でしたね。見ていられなくて、何とか父の力になりたいと思いました。
半田 私の周辺でも業界の思惑とかいろいろありましたね。
先生はいろいろな会社とかかわりを持つ時には、アメリカから入ってくる健康情報をただ受け入れるだけではなくて、どういう裏づけがあるのか、きちんと把握して皆さんに知らせることが大切だとお考えでしたから、経営者とはいろいろあったと思いますよ。
そんな状況でも勉強会も仕事のうちと、先生のお宅の勉強会にも行かせて頂きました。広報といっても何も知らないわけですからねぇ。
笹木 「先生の処方で作ります。」と言われて実際に製品化されたものは、内容が違う、というようなことの繰り返しでしたから。
どの経営者にも「先生の希望通りのものを作っていては、利益が出なくて会社は成り立たない。」と言われ、頭を抱えていました。
半田 そんな中できちんとした製品は自分たちで作るしかない、という皆さんの気運が高まって、メグビーができたと思うんですよ。
笹木 その準備ということで、研究所を作ったんですものね。
半田 C社に入社してすぐ情報誌を書くことになって、原稿は必ず電話で先生に聞いていただいて、という状態でしたが、内容よりもまず書き方からでしたね。
例えばその文章は長いから二つに分けた方がいいとか、主語をはっきりさせた方がいいとか文章を書くことへのアドバイスをして頂きました。
それが、先生のご本を読んでいると、文章はそういう風になっているんだということが段々判ってきて、とても楽しくて仕事というよりは勉強させて頂いたと思っていますね。その頃に教わったことが今になって、こういう事だったのかと、気づくことも多いのよ。
先生はまだ“複雑系の物理科学”とか“複雑さの科学”という概念がない時代に、そのことをお考えで本を書かれていたと思うのよ。
笹木 複雑系って、ようやく最近になって物理学だけでなく生命科学でも使われるようになった言葉ですものね。
半田 先生が亡くなられた後、研究所は先生からお預かりしたもので、私に後を継ぐなんて出来るだろうか?出来ないのではないか?という思いがあったけれど、何とか乗り越えられたのは複雑系科学で言う『自己組織化』という言葉に気がついて、先生の著作のなかにも、かかれているこの言葉が鍵になりました。
笹木 『自己組織化』?
半田 『自己組織化』って言うのは、多くの要素が相互作用することによって秩序が自然発生的に生まれてくる自然界の現象なんですって。
人工的に誰かが作るのではなくて、人が集まってお互いが相互作用することによって『自己組織化』という現象が生まれる、ということならメグビーもそういう形で出来た会社ではないかと解釈したんですよ。
それならば、先生が亡くなっても、先生を敬愛して集まった人たちがお互いに作用し合っていけばこれからも『自己組織化』して行く、と私の中では解釈できたんですよ。
『自己組織化』というのは複雑系の中の大切なキーワードなんです。
一人がやるのではなくて集まった人たちが相互作用するということは、仲間作りが大切だなと思うのよ。
先生は4人でも5人でも集まれば、(健康の)お話をなさいましたよね。
先頭に立って引っ張って行くのではなくて相互作用できるような仲間づくりをしたいと先生は常々思っていて、“ゲマインシャフト(友情で結びついた共同体)”という言葉を使われたのかなぁと思うんですよ。でも先生の思うような仲間作りをするのが、大変難しい世の中になってきましたね。
笹木 私たちが始めたころはまだ仲間作りのしやすい状況でしたからね。
半田 インターネットの普及で周りの人とは無関係で、自分は自分と思う人たちの中での仲間作りというのは大変難しくなってきましたね。
そういう状況の中で今まで通り“インフォメーション”や勉強会で繋いで行けるのだろうかということが、私の中では大きな課題というか心配事なんです。心配事というより問題と言った方がいいかしら?(笑)
三石先生ご存命の頃から先生を敬愛している人たちは、離れていきませんよね。私たちの中に先生がいらっしゃるから・・・
その方たちが私たちを刺激してくださるから、それに対して相互作用ができれば、形は違ってもやっていけるのかなと思っているんですよ。
それが次の世代に受け継いでもらえるのかが、大変大きな課題ですよね。
先生のご本を座右の書として読んでくださる方たちがいなくなるというか、本を読まなくなってきていますからね。
笹木 確かに本を読む人は減ってきていますから、父の本を読んで問い合わせをしてくるということは段々に少なくなってくると思います。
半田 話が前後しますが、全集(三石巌全業績 全28巻)を作ったことが私にとっては喜びでしたね。
きっかけは、先生が新聞や雑誌にお書きになった物の切抜きがものすごい量なので、「これを本にできませんか?」って、言ったんですよ。
出版して採算が合うだろうか、ということを(出版社は)当然思うでしょ?だから自費出版になりましたよね。その経済的な支援はメグビーにして頂きました。
全集に入れたかったのは『文明の解体』『大学の原点』だったんですけれど、その中に読まれやすい健康関係の本を入れたんですね。
『先生と私』の中で、いろいろの方が書いてくださったでしょ?
私の知らない方たちが先生を語ってくださったことは読んでいてとても楽しかったわ。
笹木 28巻が揃った時は、達成感があったでしょうね。
出版記念のパーティーの日の父はとても嬉しそうでしたね。
半田 本当に、ついこの間のことのようだわね。(笑)
先生に教えていただいたことを ひとことで言えば「自由に物を考えなさい」ということね。それは今の仕事にも関わることで、“医者の間での定説”“栄養学での定説”にこだわっていたら、気づかないことが多いんですよ。
「どうしてだろう?」「おかしいのでは?」と疑問を持つことで新しい情報にも出会うし、納得の出来る情報とも出会えるのね。
その情報を皆さんにお知らせしたくて、“インフォメーション”に書いているわけです。
笹木 そういう取り組み方で、“インフォメーション”は新しい情報が載っているんですね!
半田 講演会にお供すると、移動中やお食事の時とかいろんなことをお話しましたね。
その日にあった質問のことなどが話題になると「どう考えますか?」と、必ずお聞きになるのよね。私としては先生のお考えを聞きたいのに・・・(笑)
私が答えると「そこはこういうように考えた方がいいですね。」とか「もう一度考えてごらんなさい。」と、おっしゃいましたよ。
自分で考えることをしてきたから、今こうやって仕事が出来ていると思うんです。
いろいろなことを覚えて、そこから答えを出すなんて、80歳過ぎてそんなこと出来ませんよ(笑)
幾つになっても考えることは出来るのね。それが正しいかどうかは別として、“考えてみる”ということに力づけられてきたと思うんです。
“インフォメーション”を続けてきたことで、先生にご恩返しが出来たかな、と思っているんですよ。
笹木 インフォメーションは2013年12月で372号ですから、ものすごい情報量ですよね。特にお医者様は「無料でいいんですか?」と喜んでくださいます。
半田 私は夏目漱石が好きなんだけれど、漱石は野上弥生子に「文学者として年をとるべし」と手紙の中に書いたんですって。死ぬ時に恥ずかしくないような文学者として生きるようにと。それを先生に話したら「それは面白いですね。」と仰ってすぐに色紙に「学習者として年をとるべし」とお書きになったのよ。
笹木 野上弥生子さんもメグビーのお客様でしたよ。
創立当初のメグビーのお客様の中では一番の有名人だったので、覚えています。(笑)
半田 専科でも『三石理論を学ぶということは知識を学ぶのではなくて、人生を学ぶことだ。』と、お話ししても解ってくださるかどうか、わからないけれど、言わないわけにはいかないと思っているの。
「歳をとるとどうなるのか。」「どう老いるのか。」「どう生きてきたか。」「これからの人生をどう生きるのか。」ということと密着していますよね。
50歳から分子栄養学にかかわってきて35年経って思うことは、もし勉強していなければ、全く違う人生を歩いたということなの。
もし、100歳まで生きるとしたら、前半の50年と後半の50年とは延長線上にあるのではなくて、私は全く新しい人生を歩いたと思うのよ。それに、中身の充実度は多彩でいろどりがあったなと思えるんです。
“学校を出て、仕事をして、子育てをして、親の面倒を看る”という女の人生も50歳で完結したわけよね。主人は早くに亡くなりましたから。
それからは分子栄養学を学ぶということで社会とのかかわりを持つ、もう一人の全く違う新しい人生を生きるという両方の人生を経験させていただけたのよね。
それはやっぱり先生との出会いなんですよ。
笹木 確かにごく普通の女性としての人生ではなくて、50歳からは本を書いたり講演をしたりと全く別の舞台で活躍したことになりましたからね。
それを見て父は、《この勉強は子育てが終って50歳からでいい》とよく言ってました。
津田塾を選んだのはどういうことからですか?
半田 父は家から近い御茶ノ水大学に行くように勧めたけれど、当時のお茶の水はお下げ髪にしなければならなかったのが嫌だったの。(笑)三つ編みよね。
女学校の先輩と見に行った津田は外国のような、乙女心を満たしてくれるようなところがありましたね。武蔵野のキャンパスは広々としていて、とても素敵でしたね。
御茶ノ水にはどうしても行きたくなかったので、入試の日、何も書かずに答案を出したのよ(笑)
笹木 エッ!凄い!本当に?
半田 父は落ちたんじゃ、仕方ないなって、津田も受けさせてくれたのよ。(笑)
笹木 その頃、女の人が理系に進むことは、あまりなかったことですよね?
半田 そうね。父は建築家だったから津田に行くなら数学科にしろと。それが、入学してから物理化学科に転科しちゃったのね。(笑)だから、三石先生に出会えたんですよ。
笹木 自分の意思を貫いたわけですもの、凄いですね。
半田 女学校の3年の終わりはもう(学徒)動員だったんですよ。
津田に入った年に終戦で、急にアメリカの文化が入ってきましたよ。
映画は英語がわからなくても面白かったんですよ。
笹木 字幕は出ないんですか?
半田 出ないわよ。アメリカのまま来るんですもの。それに津田は英語の学校だからそれでいいと思ったんでしょうね。
優秀な学生がたくさんにいたし、共産党の闘士になった人もいましたよ。
「人生岐路あり」と先生が仰ったけれど、どちらを選ぶかで全く違ってくるわけでしょ?
笹木 確かに、どっちを選ぶかでその人の一生は違ったものになりますからね。
半田 夫を亡くしたのが早かったので、再婚話もあったけれど、もし再婚なんかしたらまた同じ人生を送るわけでしょ?
でも、学ぶということが楽しくて全くそんなことは考えられませんでしたね。
先生は沢山の方とお話されたわけだけれど、この人はこれまで、どんな風に生きてきたのかな?と話しながら思う、と、おっしゃったことがあるのよ。
先生は型にはまった成績のよい生き方には、興味を持たなかったように思いますね。
自分が老いるということを考えた時、先生のように“老化に挑戦する”という気持ちはないの。
この1、2年、自己運動的に身体の不調が起こってきた時に、面白くなってきたの。
「こんなはずではなかった」と思ったのは70代ね。
80歳を越したら、「こんなはずじゃなかった。」なんて思わないわけですよ。
でも、80歳までそんなことを考えないですんだのは、メグビーによる食生活の管理だと思うわね。
私は人生を振り返ってみて幸せだったと思うわ。
老化を楽しみながら、いつか体力がなくなって「THE END」が来ればいいなと思う、というのが今の心境です。(笑)
笹木 今日はありがとうございました。
女性が自分の意思を通すことは、難しい時代だったと思うけれど、貫き通して、そして、振り返ってみて「自分の人生は幸せだった。」と断言できることは素晴らしいことだと思います。羨ましいです!
半田 節子 様:1927年生まれ 86歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第16回渡辺 里子 様 (82歳)
笹木 予報では雨と言っていましたけれど、まだ降っていなくて良かったです。
渡辺 私なんかお話しするようなことは何もないんですけれど・・・。
笹木 渡辺さんと対談して欲しいと何人もの方に言われました。
何年か前に体験を話されたテープを文章にしたものがここにあるんですけれど、大病をなさったんですね。
渡辺 これは四国の介護施設で話をした時のものですね。
笹木 随分前からお飲みいただいていると思うんですが、メグビーを知ったのはYさんのご紹介ですか?
渡辺 そうです。Yさんとは両方の母親も父親も松山で同じ学校だったので、親同士はとても仲良くしてましたね。それに、遠い親戚なんですよ。
私も松山で育ちましたが、結婚して東京に住むようになって10年後に両親を呼び寄せたんです。
その頃にはYさん一家も東京に住んでいたので、両親はよく行き来していましたね。
笹木 それはお幸せでしたね。歳をとって引っ越すとお友達が居ないのが一番寂しいことですものね。
渡辺 そうなんですよ。
その頃は、疲れてもどこかが悪いなんて思ったこともなかったんです。
まさか肝臓が悪いなんて思いもしなかったんですけれど・・・。
笹木 自覚症状はなかったんですか?
渡辺 献血に行ったら、血液の比重が軽いからと断られたんですよ。
一度は検査を受けなければと気にはなりながら、父の看病でそのままになっていたんですね。
駅までは自転車で行くんですけれど、どうしてこんなにペダルが重くなったのかしら?と、主人に話したら、「空気が足りないんだろう。」と、入れてくれても、ぜんぜん変わらないわけですよ(笑)父が亡くなった年の暮れに、娘がお産で里帰りしてきてそれなりに疲れてはいたんですけれどね。
年が明けて、突然吐血して救急車で運ばれましてね。
献血を断られて5年後のことです。52歳でした。
笹木 渡辺さんもですけど、ご主人もビックリなさったでしょうね。
渡辺 アルコールは飲むかと聞かれましたけれど、お酒は飲めないんですよ。
検査したら、ガンでも、ウイルスでもなくて、原因はわからないけれど肝硬変だったんですね。
1ヶ月の間に2回も手術をして、入院も3ヶ月になりましたね。
何故吐血したかというと、知らない間に肝硬変になっていて、肝臓に入る血液が逆流して、胃や食道の周りに血液が溜まり、行き場がなくなって静脈瘤がたくさん出来て、そのうちの一つが破裂して血液が口から出たんですね。
緊急手術になりましたが、大変な手術で明日の陽の目は見られないだろうと覚悟して手術室に入りました。
笹木 それは、大変な手術だったんですね。
渡辺 医者からはタンパク質をしっかり摂るように言われましたけれど、今まで栄養のことを考えたこともなかったんです。肉や魚や卵もほとんど食べずに、好きな野菜ばかり食べてましたから・・・。
退院した日にYさんが、母に会いに来ていたんですよ。
それで、肝臓が悪いならタンパクが必要だと言って、栄養の話をしてくれて、先生の本を3冊貸してくれたんです。
笹木 何の本だったのかしら?
渡辺 『高タンパク健康法』『ビタミンE健康法』『ビタミンC健康法』の3冊だったと思います。本を読めばよく解るからと言われて、まず主人が読んだんです。
そうしたら、早速飲んだ方がいいと、すぐに注文してくれたんですよ。
それから、ちょうど30年飲んでます。今が82歳ですから。
笹木 長い間、飲んでいただいてありがとうございます。
渡辺 「今までのような普通の生活はもう出来ませんよ。寝たり起きたりの生活になると思います。」と言われて退院したんですよ。
退院後は3ヶ月から6ヶ月に一度検査に行くんですけれど、行くたびに元気になっていくので、先生は首をかしげていましたよ。(笑)
元気になったのはメグビーのお陰です。
栄養に無関心だったから、病気になったと思ったので、メグビーの勉強会には必ず出席していました。たくさんの出会いがありましたね。
辛い時も皆さんに支えていただいたし、もしメグビーを知らなかったら編み物をしているだけの生活だったと思うんですよ。子供の頃から編み物が好きだったんですね。
私の後半の人生は全くそれまでとは変わりましたね。今ではメグビーが生きがいです!
笹木 そんな風に思っていただけて、とても嬉しいです。
渡辺 勉強会に参加していたからOさんとも知り合えて、運動を教えていただけているんですから・・・。
笹木 九段下の運動教室ではパーソナルトレーニングも受けていらっしゃいますよね?
渡辺 そうですね。パーソナルが月に2回。皆さんと一緒に運動するのが2回。長谷川さん(2013年2月に対談)とOさん主催の勉強会が1回。メグビーの専科が1回。月に6回は飯田橋に来ていますよ。(笑)
今日もこれからパーソナルトレーニングです。
笹木 月に4回九段下で運動をして、ご自分でも習ったストレッチを毎日していらっしゃるんでしょ?
渡辺 そうですね。私は栄養と運動と休養が大切だと思っているんです。
肝硬変になると長くても20年だそうで、30年も生きているのは珍しいことだそうですよ。これもメグビーのお陰です。
笹木
メグビープロはどのくらい飲んでいらっしゃるんですか?
渡辺 体重が少ないので20gです。妹は熱いコーヒーに入れると美味しいと言うんですけれど、私は冷たいジュースです。最近はりんごジュースにスポーツドリンクを加えると甘くないのでね。ミックスを入れると飲みにくくなるので粉のまま飲んでいます。
肝臓には葉酸が必要なのでメグビーCも飲んでます。そのほかにはメグビーA、E、B、Q、S・・・。
骨密度がギリギリだったので、ボーンを飲んでいたんですけれど、高カルシウム血症になって2年前にやめたんです。肝臓が悪いと調節が出来なくて、カルシウムの数値が高くなってしまうんですよ。
笹木
今の体調はいかがですか?
渡辺 肝臓に水が溜まるんですよ。腹水ですね。ですから利尿剤は毎日飲んでます。
利尿剤の副作用の一つはカリウムが不足することなので、カリウム剤は飲んでいます。
利尿剤の量を減らすと腹水が溜まってお腹がパンパンになるし、カリウムが減ると足が猛烈につるんです。
それも普通のつり方ではなくて、2時間くらい苦しむんです。
腹水が凄く増えてきた時には水分の制限をするように言われていたんですよ。
2年前のあの猛暑に、先生の言うように水分を控えていたら水分不足で脱水症状になってしまって、カルシウム値が異常に高くなり入院になってしまいました。 カルシウム値が正常になるまでということで、結局10日間も入院しました。
笹木 水分の制限はどの位なんですか?
渡辺 食事の時にお茶1杯の他には500cc以内と言われて、口がカラカラに渇いても守っていたんですよ。
笹木 暑い夏に500ccはきついですね!
コレステロールが高いとお聞きしてたんですが・・・。
渡辺 家族性ですね。母もそうでしたし、娘も孫もみんな高いんです。
メバロチン(コレステロール低下薬)は、コレステロールだけでなくQ10も作れなくなるでしょ。エネルギーを作るのに必要なQ10が作れないのは困るけれど、メグビーQを飲めばいいと思ってます。アメリカの新薬も試しましたが、これは効きませんでした。
長い間の経験でメグビーも薬もその日の体調によって増やしたり減らしたりしているんですよ。(笑)
だから何をどれくらい飲んでいるの?と、聞かれてもお答えできないんですよ(笑) だって、個体差もあるわけだし、参考にはならないと思いますよ。
笹木 それは自主管理ができているということですね!
渡辺 先生の御本にもあるように、健康自主管理が大切だと思います。
息子は会社の検診で肝臓がんが見つかったんです。まだ、42歳でした。B型肝炎から肝臓がんに移行したんですね。大きいものは5cm位、そのほか5㎜くらいのが2個。手術で全部取るしかないと言われたんです。他の病院ではもう打つ手がないからと、ビタミンを薦められましたね。
それで、三石先生にご相談したんですが、先生にも手術はしないほうが良いと言われましたが、もう日程が決まっていたので結局手術はすることにしたんです。
三石先生に薦められた製品はいろいろあって、月に15万円ほどになりました。
その中で特に多かったのがメグビーSは15本。Aは10粒でした。メグビーと痛み止めを毎日飲んで亡くなる40日位、いや30数日前までかしら?仕事も出来たんです。
笹木 凄い気力ですね!
渡辺 息子が心配で会いに行きたくても、(同居の)母が寝たきりなので、行くわけにも行かず、母には私しかいないけれど、息子には嫁が居るんだから、と自分に言い聞かせたんです。その頃が一番辛かったですね。
痛みが段々ひどくなってきて、嫁は背中をさすることしか出来ないと言って夜も寝られないんですね。そんな時に、ホスピスを紹介されて入院して1週間で亡くなりました。
笹木 お辛かったですねぇ。息子さんはお幾つだったんですか?
渡辺 45歳で亡くなりました。丸3年の闘病でした。
父も亡くなりましたが、母は長生きで97歳になる1ヶ月前に老衰で亡くなったんですよ。
笹木 それはご長寿ですね!お母様は苦しまずに?
渡辺 そうですね。本当に眠るように亡くなりました。 そのあとは主人なんですよ。血圧は高かったので自分では脳梗塞で逝くと思っていたようで、「もし、何かあってもすぐに救急車は呼ぶな。」って、いつも言っていたんです。(笑)
しばらく経ってからなら、「残念ですが手遅れです。」って、そのまま静かに逝けるからと・・・。
息子の苦しむ姿を見ていたから、コロッと死にたいといつも言ってましたね。(笑)
そうしたら、何の病気もしないまま心筋梗塞であっという間に、亡くなったんですよ。
私は、勉強会はずっと休まず参加していて、その日は目黒の勉強会だったんです。
勉強会の後はいつも皆さんでお食事をするんですよ。
その日も主人の夕食は作って出たんですが、帰ったら、おはしを持ったまま亡くなってました。テレビもついていて、本当にあっという間で苦しまなかったんだと思います。
皆さんには「さんざん看病をしてきた人生だから、あなたの為を思ってご主人は看病をさせたくなかったのよ。」と、慰められました。
笹木 ご自分もご病気を抱えながら、看病をするのはとても大変でしたね。
でもお母様は、ご長寿だからその遺伝子を貰っているんですもの。どうぞ、お母様以上に長生きしてくださいね。
皆さんが渡辺さんとの対談を希望していたのがわかりました。
大きなご病気を冷静に捉え自主管理して、そして、たくさんの死を乗り越えて、今は生きがいを見つけて明るく生きていることを病気で悩んでいる方に知って欲しいと言うことだったんですね!渡辺さんはいつも笑顔ですもの・・・。 今日は貴重な体験談を、どうもありがとうございました。
渡辺 里子 様:1931年生まれ 82歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第15回井手 俊次郎 様 (71歳)
井手先生は高校の物理の先生で分子栄養学の勉強会を平成元年から、数箇所で開催されています。
今日は藤沢にある井手先生のお部屋に伺いました。ご自宅の隣のマンションで勉強会をしたり、本を読んだり、原稿を書いたり、囲碁を楽しんだりする場所だそうですが、窓からの眺めがよくとても快適な空間で、お話を伺いました。
笹木 お久しぶりです。急に寒くなりましたね。
早速ですが、今日は対談ということで、父との出会いからお話いただけますか?
井手 私は若いときから血圧が高かったので、自分でどうにかできないかと思って、銀座に行った時に本屋に行ったんですよ。
目に入った本が『ビタミンC健康法』三石巌と書いてあったので、物理の三石先生と同姓同名の栄養学者だと思ってパスしたんですよ。
まさか、三石先生だと思わないで他の本ばかり探したんです。
他の人の書いた本を何冊か読みましたよ。でもピンと来ないので気になっていた『ビタミンC健康法』を手にとってみたんですよ。とても科学的に書いてあったので、どんな人が書いたんだろう?と思って巻末を調べたら、物理学のあの三石先生が書かれたものじゃないですか。早速買って帰りの湘南電車の中で読んだんです。
笹木 そうだったんですか。父の名前は前から、ご存知だったんですね?
井手 そうですね。先生の著書で知っていましたからね。
三石先生は良い本を書く先生として物理をやっている人はみんな知っていましたよ。
その後、続けて『ビタミンE健康法』『高タンパク健康法』の講談社のシリーズ3冊を読みました。その3冊が出発点です。
私は降圧剤が出ない程度の高血圧なので、何か良い方法がないかと思って探していたんですよ。血管を強くするにはビタミンCがいいと書いてあったので、アスコルビン酸を買って飲み始めました。
笹木 早速、実行なさったわけですね。
井手 実家が博多なんですけれど、帰省時、新聞広告に“粉末タンパク”が載っていて、三石巌と書いてあったので、東京の住所をメモして、帰京してからそこへ行って買ったんですよ。
その帰りにビタミンばっかり扱っている店があったんですね。
覗いてみたら、タンパク質があって、手に取ったらメガビタミン協会(現:三石理論研究所)と書いてあったんですよ。それで、そこでも1本買ったんです。
笹木 でも、メガビタミン協会が三石巌とイコールだとは思ってないわけですよね?
井手 知りませんでした。すぐにメガビタミン協会に電話してプロテインがあるかどうか聞いたんです。
買えるというので、訪ねていったら他のビタミンもあったんで、何種類か買って飲むようになったのが最初です。
笹木 何年前になるんでしょうかねぇ。
井手 相当前ですよね。 そこで、三石先生の講演会がありますよ。と言われたんです。明治記念館でしたね。で、行ったんです。
それが、僕が三石先生の講演を聞いたスタートでしたね。相当古い話ですよ。
この時から、三石先生の著作を読み続けました。さらに先生が参考にされた資料も読みましたよ。
笹木 何時も講演会には来てくださってましたね?
井手 そうですね。仕事が重ならない限りは行ってました。
先生のお名前はずっと前から知っていたので、スーっと入っていかれましたね。
笹木 血圧は変化しましたか?
井手 いや。下がりはしません。(笑)
高くなっても破れないような丈夫な血管を作ればいいと先生も仰ってましたからね。
笹木 下げるということから、血管を丈夫にする方向に考え方が変わったということですね?
井手 そうです。だから血圧はこれでクリアーです。
笹木 先生が分子栄養学の勉強会を最初になさったのは、神奈川県のカルチャースクールですよね?
井手 そうですね。名前はコミニュティースクールで、旧文部省の生涯学習事業ですよ。
平成元年からで年間60時間でした。
その後伊豆大学(メグビー主催の宿泊研修)で講義をしたのが、三石先生の前で話した最初ですね。
あの時は朝の9時から夜の9時まで講義がありましたよ。
笹木 よくやりましたよねぇ。皆さん熱心でしたね。
井手 あの頃は津田の卒業生が中心でしたからね。その中に聖隷三方原病院の金谷先生と男性の栄養士さんが参加していましたね。
その時に、金谷先生が聖隷でやっていただけないかと、三石先生にお願いされたんですよ。
笹木 それで、その次から聖隷が会場になったわけですね?
宿泊もさせていただきましたよね。
井手 そう。研修センターでね。(笑)
笹木 随分長く続きましたね。その後は先生が金谷先生となさってましたよね?
井手 金谷先生が退職されるまで続きましたね。
笹木 聖隷での宿泊研修には聖隷三方原病院の栄養士さんたちが沢山参加されてましたから、人数も多かったですよね。本永先生も講義してくださったし、医大生のS君も参加していましたね。
金谷先生はお元気なんでしょうか?製品はお飲みいただいているんですけれど・・・。
井手 金谷先生は退職後、全日本の女子バレーの強化合宿の栄養指導をされていましたよ。
5セットまで戦えるようになったのは金谷先生のお陰じゃないですか。それには分子栄養学が役立ったんだと思いますよ。
笹木 金谷先生が嚥下が難しくなった高齢者の為のものを開発したと新聞で読みました。
井手 今はいろいろな病院で使っていますよ。
あとは真空調理ですね。1週間分の調理をしたものを短時間で真空冷凍するのをどこかと共同開発したんですよ。1ヶ月は持つそうですよ。
横浜の大病院が売りに出たのを買ったのが聖隷病院だそうですよ。そこの栄養科のリーダーは私たちと一緒に勉強したAさんという男性ですよ。
笹木 Aさんはよく覚えています。毎回参加していましたから・・・。
話は変わりますが、先生の勉強会は今はどこでなさっているんですか?
井手 最初は都立高校の貸し会議室でしたが、人数が減ってきたので巣鴨の喫茶店の貸し会議室を借りてましたが、さらに人数が減ってきたので今は一般席でやってます。このグループが一番レベルが高いんです。
そのほかには海老名の公民館と、ここ(先生の事務所)です。
笹木 今でも3箇所での勉強会が続いているんですね。
父と親しく話をするようになったのは、伊豆大(伊豆大学の略。メグビー主催の宿泊研修)からですか?
井手 そうですね。講義をして欲しいと言われてからは、いろいろお話しするようになりました。
笹木 井手先生の勉強会は、(メグビー製品を)飲むことに繋がっていることが凄いですよね。
井手 中にはいいとこ取りのひともいますけれどね。でも「いいとこ取りでは効果は出ませんよ。」って言うんですよ。
タンパク質が飲みにくければ、卵を食べるようにすすめます。タンパク質が最重要栄養素ですから、明らかに違ってきます。
「あなたに満ち足りているのは脂肪であって、タンパク質ではありません。」と。
笹木 父のことで何か思い出に残っていることはありますか?
井手 ありますよ。一番印象に残っているのは、先生の本を沢山読ませてもらいましたけれど、知識がバラバラに書かれていて、体系的にまとまっていないわけです。
ある時、意図的にこういう風に書かれているんですか?とお聞きしたら「そうです!一度書いたことがあったけれど、盗作にあったのでやめました。」って、はっきり仰いましたね。多分外国人だったと思いますよ。半田先生はご存知のはずです。
その時「僕の本を全部読んで、自分で組み立てて欲しい。」と仰いましたよ。
私の講座は、体系的にまとめた内容のつもりです。「不飽和脂肪酸とプロスタグランディン」の話が大変好評でした。
また、自分の頭で考えることの大切さを教えていただきましたね。
笹木 1冊を1回読んで解るようなものではないということですね。
そうですか。盗作の話は聞いたことがありませんでした。
井手 「私の本は全冊、何回も読んでください。こういう科学的な記述は解りにくいから、最低でも3回は読んでほしいですね。」と仰いましたよ。印象的なのはその二つですね。
他にもいくつかありますが、別の機会にしたいと思います。
笹木 永田先生も先日の対談で「何回繰り返して読んだかわかりません。」って。
井手 永田先生が何回も読んでいらっしゃるわけですから、我々が1度や2度で解るはずがありませんよ。それは無理です!
普通、理系の本は古くなると使い物にならないんですよ。新しいことがどんどん判ってきますからね。でも、先生の本は今でも充分通用しますよ。科学の基本が書かれていますから。
本の価値は古本になった時に決まります。特に理系の本は価値が下がりますね。三石先生の本をネットで調べてみてください。その価値がわかりますよ。
それに分子栄養学は、今や大学の管理栄養士科の選択科目になっていますよ。
ただし、先生の確率的親和力は物理的表現なので出てきませんが、DNAをベースにした全身の代謝系の内容です。
笹木 ご自宅の隣のマンションに、ご自分の部屋があるなんて理想的ですね。しかも8階で、ものすごく眺めも良いし・・・。
これからも、皆さんにわかりやすい分子栄養学の勉強会を続けていただきたいです。
今日は長い時間ありがとうございました。
井手 俊次郎 様:1943年生まれ 71歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第14回奥田 欣作 様 (66歳)
笹木 こんにちは。
最近は徳島と東京を行ったり来たりで、とてもお忙しそうですね。
奥田 そうですね、月の半分は徳島です。
後でお話しますけれど、今度宿泊研修もするんですよ!
笹木 凄いですね!
奥田さんは長い間メグビーを飲んで下さっていますが、最初は本を読まれたんですか?
奥田 Fさんの紹介です。Fさんもメグビーを飲んでいたわけではないけれど、三石先生の講演会に一緒に行きませんか?と誘われたんです。それが1995年ですかね。
脳の話でした。(補足:1995年7月「頭がよくなる話」於アルカディア市谷)
笹木 三石巌なんて今までご存じなかったわけでしょ?どうして行こうと思われたんですか?
奥田 素晴らしい講演会だからと、古いお付き合いのFさんが言ったからです。
今までも健康の話だと思って聞きに行くと、商品を売るための講演会で、何度もがっかりさせられてるんですよ。
運動をしていたので、活性酸素に興味があったんです。ある会社では質問したら「勉強なんかしなくて良いんですよ。ちゃんと勉強している人が作っているんだから、あなたは売るだけでいいんですから。」とか。「商品についての質問は受けるけれど講演の内容についての質問は受けません。」とか。質問には答えないで「ホームページを見てください。」と言うんですね。説明している人が良く判ってないわけです。そんな会社ばっかりで、どの講演を聞きに行ってもがっかりしてました。
でも三石先生の講演を聞いたら、今までとはまるで違う世界でした。
それでもすぐにはメグビーを買わなかったですね。先生の本を何冊も読んで「本物だ、この勉強は自分に必要だ。」と思ったんです。
笹木 父のご相談日にはいつも来ていらっしゃいましたよね?
奥田 先生に会いたくて毎月行ってましたよ(笑)くだらない質問でもニコニコ笑いながら答えてくださいましたよ。変な奴だなぁというような顔もせずやさしい笑顔で接していただきましたね。帰ってもう一度本を読むと書いてあることばかりで。それなのに、本に書いてあるとか、嫌な顔ひとつしないで丁寧に解りやすく説明してくださって・・・
本当に失礼なことをしたと思いますが、先生の魅力ですよね。それが無かったら続けていなかったかもしれないですね。
どんなに商品がよくても、どんなに理論が良くても、そこには“人”がいるので、その人間性によってその商品を使うか使わないかは決まると思うんです。
笹木 父の魅力でメグビーは広がったと思っています。
奥田 本当に思い出しますねぇ。先生の優しい笑顔と感情をあらわにせず、どんな質問にもやさしく答えるあの姿勢を思い出しますよね。
笹木 穏やかな人でしたからねぇ。
奥田 三石先生の講演会に行かなかったら、今でもメグビーとのご縁は無かったと思いますし、今のような運動指導は出来なかったと思いますよ。先生との出会いで私の人生が変わったんですね。
笹木 分子栄養学やバランスボールの指導をすることはなかったかもしれませんね。
奥田 前からしたかったので、運動指導はしていたと思うんですよ。ただ高齢者に対する運動指導は考えてなかったし、栄養を取り入れての運動ということも考えていませんでした。
練馬に事務所があった頃、半田先生の公開講座がありましたよね。それが最初の勉強会です。
笹木 あの頃、公開講座は毎月ありましたね。事務所から一番近い銀行の会議室が借りられない時には図書館とか教会など転々として、会場の確保に苦労しました。
今では勉強会も事務所内で出来るので、会場の心配をしなくて良いので助かっています。
奥田 池袋の芸術劇場で“アカデメイヤ”という講座がありましたよね。僕も参加しましたが、三石先生が亡くなられた後の半田先生はとても厳しかったですね。三石理論を正しく伝えたいという気持ちが強すぎて、叱咤激励したのだと思いますが、厳しく指導する半田先生をみてメグビーという会社は本物なんだと思いました。
他はおだてて、売れ、売れと言う会社ばっかりですよ。
先生は本当に厳しかったですよ。でも、受け取り方だと思うんです。
それまでに話を聞いた怪しげな会社には無いことですよ。売れればいいんですから・・・
何度も裏切られていた時に三石先生との出会いがあって、感銘しこの勉強をしようと思ったんです。
1997年にある会の新年会で三石先生に講演をお願いしていたんですね。1月に確認のお電話を差し上げたら社長が出て、「父は亡くなりました。」と言われたんですね。 その少し前にその件でお話していましたから、ショックでしたよ。本当にあっと言う間に亡くなられたという感じでしかないんですよ。
その会で「三石先生は亡くなりましたけれど、恩師の代わりにまいりました。」と半田先生が挨拶なさったんです。この時に半田先生の講演を聞かれた方のうち4名が今でもメグビーを摂っていますよ。
笹木 そうですか。続けてくださって有り難いです。
奥田 半田先生は正しく三石理論を人に伝えたいので、どうしても厳しくなってしまうということをおっしゃつたことがあるんですよ。半田先生のことを思うにつけても三石先生の偉大さを思うわけです。素晴らしい理論は人によって受け継がれるものなんだなぁ、という実感がありますねぇ。それは他の会社には無いことですね。
勉強会に出ても何も判らないのに「皆さんご承知でしょうが・・・」と、半田先生がいつも言われるわけです。だから、不勉強を自覚することが出来て欠席はしないぞと(笑)
人との出会いは運命を変えるんです。
笹木 そうだったんですか。
父の死は突然だったので、半田先生もものすごい重圧があったんだと思いますね。
奥田 勉強を始めて何年か経った時、仕事先の本郷で白衣を来たドクターが本屋に入ったんです、どんな本を読むのかなぁ?とそばに行って、何気なく医学書を手にとってみたんですね。
今までだったらわからないような医学書を、です。でも知っている言葉が沢山あって読めたんです!詳しい意味はわからないけれど、拒絶反応が起きずに読めたんです。勉強を続けることの凄さに気づいた一瞬でしたね。抵抗無く読めたのは講義で聞いた単語が沢山あったからです。その時の感激は忘れられませんよ!
情報価値構造論の中で言う閾値が下がったということです。
今でも半田先生はいつも「三石先生は・・・」と言うじゃありませんか。常に恩師の名前が出るというのはとても信頼できるし、本当に尊敬できます。
先生の遺言でもあるわけですが、学習する人を一人でも増やしていくことが私たちの役割なのかなぁ、と。
半田先生のようには出来ませんが、微力でも続けていくことだと思いますね。
他の会社に無いものは何なのか。というと、この伝統ですよね。
笹木 確かに学習の大切さですね。
奥田 祖母は学習することは大切だと常に言っていた人なんです。「欣作。聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥なんだよ。」と。このことが大きく影響していると思います。
笹木 今、東京と徳島で何ヶ所もお教室を持っていますよね?
奥田 そうですね。中学の頃から剣道、弓道、空手と武道を続けてきて、運動指導をしたいと思っていたんですが、(埼玉県の)森林公園での“源流プロジェクト”というのに参加して始めてバランスボールを紹介され、運動と栄養と両面から健康自主管理をしましょう。という呼びかけがあったのは、2001年の4月でした。
その時にボールを使った運動が中高年には良いのではないかと思ったんです。
2泊3日でしたが全額メグビーが負担して勉強させていただいたんですよ。
笹木 それがメグビーでの運動の始まりですね。「バランスボールを使った運動で、寝たきりをなくそう!」ということで、指導できる人を育てるという企画でしたから。
奥田 武道は軸を非常に大事にするんです。それにはこのバランスボールも軸の意識を作れるのでいいのではないかと思ったんです。
軸がぶれている人は自分では判らないんです。ぶれていることに慣れてしまうんですね。でも、それを戻してくれるのがバランスボールなんです。
笹木 ずっと奥田さんの運動を続けているHさんは年齢(94歳)のわりにとてもお元気です」よね。(第一回の対談に登場)
先日も那須にご一緒しましたが、凄く健脚ですよね。テレビはいつもバランスボールに座って見るそうですよ。
「三石先生の年までは元気でいるようにって息子に言われていたけれど来年1月には95歳だから、もう責任は果たせたわ。」って、笑ってましたよ。
奥田 100歳まで元気でいてくださいってお願いしているんですよ。でないと、私の運動がウソになりますからって。(笑)。
笹木 あんなふうに元気でいられるっていうことは凄いことだと思いますね。背中も曲がっていないし、頭もしっかりしているしね!
奥田 身体が健康でなければ、頭は元気でいられないと思うんです。
笹木 Hさんが参加している(千代田区)九段のお教室は随分続いていますよね。
奥田 バランスボールを使った運動と分子栄養学の基礎を学ぶ教室です。他にもパーソナル・トレーニングもしています。教室が2回とパーソナルが2回ですから、多い方は月に4回やっています。猫背だった方が真っ直ぐになって、背が2センチ伸びたんですよ!
そういう方々に支えられています。
パーソナルでは身体を支えることが歳をとってきたらとても大切ですから、筋トレをして下半身の筋肉をつけるようにしてくださいと、お願いしています。
笹木 デイサービスではかなりご高齢の方だと思いますが、お話も理解してもらえるんですか?
奥田 不思議なんですけれど熱心なんですよ。普通は食後寝るそうなんですよ。ところが私の教室の時には一人も寝ていないと職員が驚いているんですよ。それなりに聞いていてくれますね。
身体を支えることが歳をとって来たらとても大切ですから筋トレをして下半身の筋肉を付けるようにお願いしています。
それから、情報の価値ということがとても大切だと思うんです。個体差の栄養学ということは変わらないけれど、複雑系という形で先生の理論を発展させたのは半田先生ですからね。
笹木 奥田さんは肌がつるつるですけれど、商売柄(美容関係)お手入れをしていらっしゃるんですか?
奥田 保湿は大切なので美容液と化粧水は付けますけれど、やっぱりヒトフードでしょ!
肌がきれいだと言われるとプロテインの話なんかをするんですよ(笑)
私はかなりプロテインをとっていますし、特にトレーニングした後は多いですよ。
笹木 何時もどのくらい摂っていらっしゃいます?
奥田 少ない時で40グラムです。皆さん摂る量が足らないですよね。
私は尿酸値が高くて投薬を受けていますし、コレステロールも高いですが医者は何にも言いませんよ。言っても飲まないのは判っていますから。(笑)
笹木 痛風の発作はどんな風になるんですか?
奥田 何回も経験していますが、歩けないです。薬はメグビーを摂る前から飲んでますね。
メグビーを知ってから、栄養でどうにかならないかと工夫してみましたが、どうもうまくいかないですね。
私は皆さんに言うんですよ。40過ぎて賞味期限、保障期限が切れているのに図々しく生きていこうというのなら手入れをしなければだめですよ。って、言うんですよ。
いちいち味がどうのこうのと言っている場合じゃないですよ。
私はお陰さまで健康レベルの高い状態を維持していますけれど、年齢からしてもいつ何か起こってもおかしくないという覚悟はありますよ。だからこそ、真剣に健康自主管理をしなければいけないと思っています。その為には学習しないと無理だと思いますので。
“学習”を純粋に薦めるという会社は日本にはメグビーしかありませんからね。
笹木 それは永田先生も先日の対談の時に言ってくださいました。
奥田 そうですか。永田先生のような方にサポートして頂けると何よりも信用できますよね。
学習のメグビーということをもっともっとアピールしたいですね。
皆さんが結果を出さなければ広がらないんですよ。私の教室が大きくなるには皆さんが変わることだと言うんですよ。あなたを見て「何をしているの?」「年齢の割りに元気だけれど何かやっているの?」と思われた時に、広がっていくわけです。
そういう方は沢山いるのに、私なんか・・・と言って発信しないわけですよ。でも社会参加、歴史参加という意識を持って、皆さんに自分にも役割があるということを自覚して欲しいですね。それが三石先生のお考えだったわけですからね。生き証人が沢山いるんですから・・・
笹木 その為にはこの対談をすることも一つの役目だと思っています。
奥田 そうですね。いくら穏やかな人でも、一瞬は嫌な顔をするじゃないですか、でも先生はそれもありませんでしたね。先生は学習するということで自分の感情を超えたんですね。
笹木 それは見習わなければいけませんね。
奥田 学習が足りないということと、私のフォローも充分ではなかったわけですが、メグビーを飲んでいれば大丈夫だと思っている人がいるわけですよ。その方が大病をした場合、こんなはずじゃなかったと思うわけです。そう思ってやめていく。
それが非常に残念ですね。学習していればわかることなのに、それをしないと何かあった時に、たじろぐんです。メグビーをやめて行った方の中にはそういう方が沢山います。実はその時こそ!なんですけれどね。学習がいかに大事かということなんです。
デイサービスではほとんどがお話です。ボールも大きいのは危ないので、小さなボールを使っています。病気を持っている方がほとんどなので、先生が言われていたように“病気と健康を分けない”ということを話します。健康レベルを上げること、脳の話などしますね。話の材料があるのはありがたいです。
笹木 ボケずに心身ともに自立できる健康状態でいられることはとても幸せなことですからね。これからも頑張って皆さんの指導にあたっていただきたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。
奥田 欣作 様:1947年生まれ 66歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第13回山仲 淑子 様 (86歳)
10月になっても真夏のように気温の高い日が続き、今日も29.6度と真夏日です。
山仲さんは北海道酪農大学の山下勝先生の姪御さんです。
山下先生には北海道での講演会では、いつも司会をしていただいていました。
笹木 今日は例年に無い暑さのなか、来ていただいてありがとうございました。
大丈夫でしたか?
山仲 車の移動ばかりで、今まで電車に乗ったことは無かったから、どこに行くのも大変なの。どの電車に乗ればいいのか、どこで乗り換えるのか、エレベーターはどこにあるのかが判らないんですもの(笑)
一度転んでからは、怖くてエスカレーターも乗れないのよ。
笹木 暑いし、ここに来るまでに疲れてしまいましたよね。お疲れ様でした。
早速ですが、山仲さんがメグビーを知ったのは、山下先生のご紹介ですか?
山仲 それが偶然、叔父(山下先生)の長女が一人でヨーロッパに行った時、飛行機の中で具合が悪くなってね。
三石先生はメグビーの方たちとフランスかどこかにいらしたことがあるでしょ?
笹木 私は行っていないんですけれど、フランスで講演をした時のことだと思います。
(補足:1984年7月にパリとぺリグーで講演。演題は「分子栄養学について」)
山仲 多分その時ね。
偶然、先生がお隣の席で介抱してくださって、栄養の話を聞いて、札幌で講演をするので、良かったら聞きに来ないかと、言われたんですって。
行きたいけど、都合がつかないので、父親に自分の代わりに聞きに言って欲しいと頼んだんですね。叔父は三石先生にすっかり傾倒してしまって、いい話だから一緒に聞きに行かないかと今度は私が誘われたんです。叔父と一緒に明治記念館の講演会に行ったのが最初なのよ。
叔父は北海道で聞いて、よかったからまた聞きたいと上京してきたんですよ!
笹木 山下先生も汽車で隣に座った方にメグビーの話をしたら、飲むようになった。と言ってらしたことがありますけれど、父にもそんなことがあったんですね。
それにしてもすごい偶然ですよね!
山仲 そうなの。従妹の具合が悪くならなかったら、私は三石先生を今でも知らなかったと思うのよ。
九段の私学会館での宿泊研修(1988年8月)が、初めて参加した宿泊研修でね、その時、隣の席がTさんで「私初めての参加なんですよ。活性酸素って、いい酸素かと思っていたのにね。」と、話しかけられたのよ。
(補足:半田所長の講演は「活性酸素を学ぶ」でした。)
笹木 活性酸素なんて、みんな知りませんでしたものね。
山仲 私は26歳の時に足に腫瘍ができて、検査したら良性だったのでその部分だけをとったんですけど、5年位したら膝から足の付け根まで石のようにコチコチになってしまったんです。
昭和31年に9時間かかって、しこりを全部取る手術をしたのに、1年後にはまた同じ状態になってしまったんです。
放射線治療も当時はコバルトかレントゲンの照射しかなくて私はレントゲンを当てましたけれど、そのために骨がものすごく弱くなって骨折してしまうわけです。
笹木 とても辛い思いをされたんですね。しかも、ガンではなく、良性だったのに状態が悪くなって病院に行ったわけですね?
山仲 放っておけばガンになると言われ、放射線治療を受けたんです。腫瘍は無くなりましたけれど、潰瘍が出来て治らなくて・・・・
そんな状態なので仕事をやめて、お花の先生をするようになったんです。
笹木 そうでしたよね。お花を教えているとお聞きしてました。それと、編み物も、よくご自分で編んだセーターを着ていらっしゃいましたね。
山仲 そう。特別な編み方でね。
そうこうしているうちに骨髄炎になって抵抗力が無くなり、菌が身体中に回ってしまって入院したんです。
切断はしたくなかったのですが、そうはいきませんでしたね。少しでも足が残っていれば義足も扱いやすいと思うんですが、全く無いわけなので歩けるようになるまでに8ヶ月かかりました。
笹木 大変な手術で、リハビリも辛かったですね。
何歳ごろだったんですか?
山仲 52歳でした。先生に運転免許を取れば行動範囲が広がるからと、勧められて障害者の教習場に通って、何度も挫折しましたけれど、54歳で免許取得です!
笹木 北海道の山下先生のところまで車で行ったり、姪御さんの居るプロバンスに行ったりして、行動的でしたよね。
山仲 そう、手術後も随分旅行しましたね。
C型肝炎にもなりましたけれど60代には、自分のやりたいことは何でもできましたよ。
でもね。手術の時には親兄弟は健在でしたが、いずれは一人になるわけでしょ?
自分で何でもするには健康でいなくてはいけない。その為には栄養のことも考えなくてはいけない。と、思っていた時に三石先生に出会って「老化に挑戦せよ」を最初に読みました。
講演会や宿泊研修だけで無く、ご自宅の勉強会にも参加させていただいていました。
それで、若いときからの低血圧は何とかならないかと先生に相談したら、タンパク不足だと言われましたよ。
メグビープロを3箱飲み終えた頃には最高血圧が85を超えることが無かったのに110になり、それからは欠かさず飲んでいますね。
笹木 山仲さんは他社のプロテインを飲んでいたことがあるけれど、メグビープロは飲みやすい!と言ってくださったことがあるんですよ。
山仲 そうでしたっけ(笑)
70代になって右手中指の関節が痛くなって病院に行ったら、リューマチを疑われたんです。新薬のリマチルを試したらGOP、GPTの値が高くなって身体はだるくてしかたないし、帯状疱疹はできるし、とにかく免疫力が低下してしまって、風邪ばかり引くしおかしいということになって検査入院したんですよ。
糖尿病の疑いがあるからとインターフェロンの治療を勧められましたけど、考えさせて欲しいと言って断りました。
笹木 しばらくメグビーを飲むのをやめていた時期がありましたよね?ちょうどその頃かしら?
山仲 そうね。医者にはプロテインをやめるように言われたのよ。でも、飲まないと元気が出なくなるんですよ。だから今でも飲み続けています(笑)
何日かプロテインを飲まないと元気が出なくなるけれど、飲めばまた元気になりますから、ありがたいですね!
義足だと床の掃除が出来ないので、ヘルパーさんに週2回床掃除とトイレ掃除をお願いしていますけれど、あとは自分でしています。
笹木 不自由なことが多くて大変だと思いますけれど、これからも健康第一で頑張ってくださいね!
今日はどうもありがとうございました。
山仲 淑子 様:1927年生まれ 86歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第12回 新春特別号永田 親義 先生 元国立ガンセンター研究所生物物理部長 (91歳)
永田先生にはホームページにも推薦文を書いていただいています。
生前父は「永田先生は僕の尊敬できるたった一人の先生だ。」と、言っておりましたが、書斎から50通ほどの先生からのお手紙が出てきした。
永田先生と対談して欲しい、というお声は沢山の方から頂いておりました。私がお話を聞かせていただくにはあまりにも敷居が高くて躊躇しておりましたが、快く引き受けてくださり、横浜のご自宅へ伺いました。
対談の前に先生のプロフィールをご紹介させていただきます。
フロンティア軌道理論を発表し世界の化学界に衝撃を与え、1981年にノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の助手として研究し、フロンティア軌道理論を発ガンそのほかに適用する研究を進めた。
1962年新設の国立がんセンター研究所で、生物物理部長として発ガンのメカニズムを研究。発ガン物質が生体内でフリーラジカル・活性酸素を生成することを発見し、発ガンにおけるフリーラジカル説を提唱した。
主な著書に「量子生物学入門」「ガン発生の機構」「人のガンは なぜ生じるか」「新しい量子生物学」「独創を阻むもの」「活性酸素の話」などがある。
私が父から「読んでごらん!」と、渡された本が『独創を阻むもの』でした。
そこには『21世紀の世界で、尊敬される国としてわが国が生きていくためには、日本人の独創性を高め、そこから生み出される知的成果を人類共通の財産として世界に提唱していく知的生産の発信国となっていく以外にない。-後略―』と、書かれています。
父は自分と同じ考え方をする先生に惹かれ、尊敬していたのだと、改めて思っています。
笹木 今日はお宅にまで押しかけてきて申し訳ありません。
父とのエピソードなどお聞かせいただければと思っていますので、よろしくお願いいたします。
最初にお聞きしたいのは、父との出会いですが、父からは先生の本を読んでお電話をしたと聞いていましたが・・・
永田 1985年にお電話を頂いたんです。
笹木 電話番号はどこで調べたのでしょうか?
永田 聞いてはいませんが、多分出版社に問い合わせたんだと思いますよ。
私の『量子生物学入門』を読んで、質問があるので伺いたい、という突然の電話でした。
「ここは横浜と言っても大船寄りで、交通の便が悪いですから私が伺います。」と言ったんですけれど、「いや、私が行きます。」とここまでいらしたんです。練馬からは3時間近くかかったと思いますよ。
笹木 そうだったんですか。電話だけかと思っていました。訪ねてきたとは知りませんでした。どうしてもお目にかかってお聞きしたかったんですね。
永田 ここにいらしたのが初めての出会いなんです。先生はその時85歳でしたがお元気で、頭脳がさえていてビックリしました。
笹木 一人で伺ったんですか?
永田 そうです。少し足が悪いと言ってましたけれど、それはお元気でしたよ!身体はもちろん頭脳の冴えもですね、驚きました。
この部屋でこんな感じでどんな話だったか覚えていませんが僕の本の話、分子栄養学の話、学問の話をたくさんしました。
僕らはポーリングの本で勉強したものですから、ポーリングの話もしたような気がしますね。
この本は(量子生物学)入門といっても一般向けでは無くて、東大の大学院での生物学の講義をまとめた本で、専門書なんです。学生や専門の人でも「量子生物学なんて難しい」と言うような本なので、それを80過ぎの方が読んだことにとても、びっくりしましたね。
それから、頂いた本を読んで先生の偉さがだんだんわかってきましたけれどね。
先生の偉いところは独創性だと思います。
古典的な栄養学はどの食品にどんな栄養があるという学問だったのに、先生は分子生物学を基礎にしたわけですよ。
生体は酵素反応で成り立っている、酵素反応というのはタンパクから出来ている主酵素とビタミン、ミネラルなどの助酵素といいますか、補酵素が結合して初めて起こるわけです。
先生の理論では、主酵素と補酵素の結合に個人差があるということをおっしゃったんですが、当時、学会でもそういうことは言われて無かったですね。
笹木 “個体差”に注目したことが、今のメグビーの基礎になっています。製品の種類が多いのも個体差をカバーする為ですが、始めて飲む方にはどれを飲んだら良いのか多すぎてわからないと言われることがありますね。
永田 酵素反応で結合に個人差があって強さや活性に違いがあるということは聞いたことが無かったので、そういうことがあるのかな、と思いました。
結合を容易にするにはビタミンを沢山摂らなければならない、というのがメガビタミンなんですよね。
そういう点が新しい独創的な考えだと言えるわけです。それ以外でも、先生の独創的な考えというのは沢山あると思いますが、一番は分子栄養学を提唱されたということです。これはパラダイムの転換なんです。
古典栄養学から分子栄養学へのパラダイムの転換をされたということは、先生の大きな業績だと思っています。このことは、今の世の中に大きな影響を及ぼしていますからね。
笹木 “分子栄養学”という言葉は父の造語ですが、今では普通に使われるようになったし、大学の講義にもあるし、父は喜んでいると思います。
永田 それと先生がユニークだなぁと、思ったのは普通、病気と健康は分けて考えますよね。でも先生は健康レベルという一本の線で考えたわけですが、これも独創性なのかな、と思うんです。
これも誰も言わないことですよね。
確かに病気を持っていても元気に働いている人もあるわけだし、健康であってもダメな人もいるわけですから“独創”とは誰もが良く知っていることを誰も考えなかったように考えることなんですね。これを独創というんです。
先生は学習して欲しいとの願いで、メグビーがうまれ、それが30年経っても受け継がれているということは物凄いことだと思っているんです。これからもずっとメグビーには、存続して欲しいと思っているんですよ。
物を売って利益を得る為に会社を創るのが、資本の自己運動ですからね。それとは相反した形で会社を設立した、これは先生の素晴らしいところですよ。
笹木 確かに“学習のメグビー”ということが前提でしたから・・・
永田 毎月のインフォーメーションも、370号というわけですから、30年間書かれているわけで、これは凄いことですよ。
私は今までの対談とは少し違って、先生の独創性と先見性について話そうと思っています。
次に先見性ですが1986年に『文明の解体』が出版されていますけれどもこれは凄いですね。私も何回も読み返しましたよ。
出版された時に、羽仁五郎がマルクスの資本論、レーニンの帝国主義論を読んだときの感動を覚えた、と。今マルクスが生きていたらこういうことを書くだろう。と言ったというんですね。羽仁五郎という人は僕らの学生時代、論客でね、講演を聞いたこともありますけれど、ものすごく厳しい人なんですよ。歴史学者ですが、いろいろなことを厳しく批判して、人を褒めたりお世辞を言ったりするような人ではないんです。
ですから、羽仁五郎がそれだけのことを言ったというのは、この本の素晴らしさだと思いますよ。この本は独創的でもあるし、先見性もありますからね。
笹木 認めてくださったということですね。羽仁五郎さんとは自由学園で教えていた時にご一緒したので、対談が全集(三石巌全業績第1巻 『科学との出会いをもとめて』)に載っています。
永田 自然、人間、科学技術、資本。この4つの自己運動で歴史は作られると、言うのが先生の考え方ですね。嵐が起こるのも地震が起こるのも自然の自己運動なわけですよ。
先生は30年も前に言っていたわけですけれど、“今”それが起こっているわけでしょ。
自然、人間、科学技術、資本それが制御されずに来たことによって大型台風や豪雨、温暖化などが起こったわけですよ。今の気象状況は人間が作り出したものですからね。
福島原発事故だってそうですよ。地震も津波も温暖化に関係してるわけですから。
科学技術や資本の原理ですね。ただ電気が安くできればいいというようなことですよね。
全部この本で説明が出来るわけですよ。非常に先を見通したというか先見性があったわけです。若い人にとても読んでほしい本ですよ。
笹木 確かに父が言っていたような気象状況になってきていて怖い気がします。
永田 もうひとつの先見性は、私の研究していたガンについてですね。先生は1977年に『ガンは予防できる』を書かれていますけれど、その頃、学会でも誰もガン予防のことを言う人はいませんでしたね。
80年代の終わりごろからですから、ガン予防を言い始めたのは。そういう時代になぜ先生は予防のことを言われたのかと、自分の専門分野からみても先見性があると思っています。
笹木 その頃は、早期発見ということが重要視され、一般には予防するという概念はありませんでしたからね。
永田 それともう一つ、公害運動をなさっていた時期がありますよね。昭和40年代ですか、品川電線の鉛公害や池袋から大宮への40メートル道路のことについて運動されていましたが、道路運動の先駆けですよね。私たちは60年代になってからですから、20年も先に道路運動をされていますよね。
笹木 そういう運動をしたのは早い方だったんですね?
永田 ええ。非常に早いですよ。
先生のご年齢で革新的な考え方で世の中を見ようという人、また、体制批判する人は珍しいです。でも、今の時代に一番大切なことだと思うんですよ。
笹木 地域の中心になって鉛公害や有事の時には滑走路になるという大型道路の反対をしていました。父たちの意見が通って、道路幅を狭くして遊歩道が出来ました。
鉛公害の方は嫌がらせが多くて母は遠くに越したい、とよく言っていました。
(実家のある)小竹町に越してすぐに、その電線工場のそばの公園で長男を遊ばせたら、目が腫れてまぶたが開かなくなってしまったんです。
急いで近所の小児科に連れて行ったら、先生はすぐにその公園で遊ばなかったかと聞きましたから、地域の皆さんは知っていたけれど、区議会議員の経営する工場なので、運動には参加しない方が多かったみたいです。
それで地域の方にもっと実情を知ってもらいたいということで、父が下書きをして主人が書いた壁新聞を父の家の塀に貼っていました。活字のような字を書く人だったので、書くのは主人の係りだったみたいです。
子供たちが安全に遊べるように、公園の砂を全部取り替えるような交渉もしました。長男はしばらくして小児喘息になりましたが、“小竹喘息”という病名でしたから、本当に鉛公害はひどかったと思います。父も“鉛中毒による糖尿病”と診断されましたし・・・・
永田 先生も書いておられますが、ただ反対するのではなくて、理屈に合った、住民が納得できるような状況にするということですよね。
先生は保守的ではなくて革新的で、学習されて新しい知識を取り入れていくことで世の中を見ていましたけれど、あの年齢でそういう人は珍しいですよ。
体制批判が出来るということはものすごく大事なことなんです。
いまそれが一番大事なことなんですよ。で、ダメなのはマスコミですよ、全くチェックする機能が無くなっていますからね。このままいったら、若者にいつ徴兵が来るかわかりませんよ。
何が悪いって、戦争ほど悪いものは無いんですから。僕も兄が戦死していますし、友人はたくさん戦死していますからね。
そういう世代の人間ですから、戦争だけは絶対にしない世の中にしなければならないんです。道路運動も結局そこに繋がるんですよ。
人権とか民主主義とか、きちんとしたいと思っているんです。
私も道路運動を地域の方々としていますが、環境問題だけではないんです。
高度成長期に計画された10車線もある物流の為の大型高速道路ですよ。世の中の状況が変わり、他に大きな道路が出来て今は必要もないのに、昭和30年代に決めたことを、見直しもせず、その通りに実行しようとしていることに対する疑問と、この土地を分譲するときには10車線の大型高速道路計画があるにもかかわらず、生活道路で大船までバスで10分で行かれるようになると偽って宅地分譲したわけです。
ここに来る前には築地に住んでいましたから、静かなところがよくて買ったわけですからね。高速道路になるなら購入しないと言ったら、いや、生活道路です、と言いましたよ。
それで、みんなその時に説明を受けて越してきた人たちですから、町会として反対運動をしているわけです。ただ、環境問題だけではないんです。
笹木 それは詐欺じゃないですか!
永田 そうなんです。だからみんなものすごく怒っていますよ。もう25年になりますけれど、町会みんなで運動しているわけですが、25年も経つとみんな歳をとってきましてね。
若い人たちは関心が無いんですが、地域全体が取り組んでいるので、嫌がらせということはありませんでしたね。
裁判も今8件やっているんです。民主主義として許されないことですので、今後もやっていかなければと思っています。
笹木 8件の裁判は全部、圏央道なんですか?
永田 私たちが反対しているのは、圏央道の一部なんです。
圏央道は300キロありますけれど、その中のこの辺を通る9キロに対する反対運動です。
人口も減ってきているので、そんな大型道路は必要ないわけですよ。トンネルにするから良いだろうと言いますけれど、住宅の真ん中に10車線ですよ!
トンネルの大きさは、どのくらいだと思いますか?
笹木 ???
永田 断面積は870平方キロですよ!
比較で言うと地下鉄の2車線が40~50平方キロですから、20倍です。
笹木 ものすごく大きなトンネルですね!
永田 世界一の巨大なトンネルで日本にはそんな大きなトンネルは他には無いんですよ。
笹木 そんなに交通量は多くないですよね?
永田 そうですよ。昭和30年代の計画をそのままやろうとしているわけですから。
輸入に頼っている今の日本の現状では物流の為のそんなに巨大なものは必要としていないんです。そんなものを作って20年後30年後に誰が使うかっていうことですよね。
日本の行政というものはこの程度なんですよ。
いくら反対されても何年かすれば担当が替わるわけですから、その繰り返しですね。
自分たちの為ではなく、これからの子供たちのことを考えて皆さん一生懸命なんですよ。
笹木 本当に孫たちの時代やその子供たちのことを考えると、どんな環境になっていくのかとても不安です。
最後にメグビーをお摂り頂いての感想をお聞かせいただけますか?
永田 メグビーの対談とか読んでいると非常に良く効いたから飲んでいる、という人ばかりですね。
私自身も一昨年心不全で入院した時に感じたことなんですけれど、メグビーを飲んでいたので皆さんと違うんです。
心臓で入院した人たちは皆さん心臓だけでなく、血管の治療をしているんです。でも私の場合、血管は非常にきれいで全く問題がありませんでしたね。それは、メグビープロを長年飲んでいたことの結果だと私は思いましたよ。
体験談にも、皆さん身体で体験して飲み続けているということが書かれていますが、それがメグビーの特徴だと思いますね。
飲んだ人は“にゅーすあらかると”に載っていなくても、そう思っている人は沢山いると思いますね。それが強みだと思いますよ。
笹木 それだけで成り立っている会社ですから(笑)
永田 世の中には飲んだら調子が悪くなった、なんていうのが沢山ありますからね。宣伝で売れているのではなくて体験した方が買うというのがメグビーの強みですね。
笹木 そうですね。ありがたいです。
ところで先生はお幾つになられたんですか?
永田 1922年9月生まれですから91歳です。
笹木 お元気ですねぇ。
永田 三石先生のようにはいきませんよ。95歳でスキーをするなんて(笑)
笹木 もしスキーに行かなかったら100まで元気だったかもしれませんね。
永田 絶対100は超えてますよ。日野原さんのように100歳を過ぎてもお元気だったと思いますよ。元気なことがかえっていけなかったですね。
僕はスキーなんてとてもね。杖をついて無理なことはしないし、外出もできるだけ断るようにしてますから。
笹木 その方が良いです!先生にはいつまでもお元気でいていただかないと困りますから。
今までの対談はお客様が中心でしたので、違う角度からのお話が伺えてとても良かったです。どうもありがとうございました。
永田 親義 先生:1922年生まれ 91歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第11回清水 晴恵 様 (56歳)
私が清水さんに初めてお会いしたのは、ご主人と息子さんと3人で、無事に手術(胸腺摘出)が終った、と父に報告にいらした時だと記憶しています。
また、宿泊研修でお隣に座った時に、右手でノートを取りながら左手でラインマーカーを引いている姿がとても前向きで印象的でした。
あれから28年。清水さんはとても若々しくお元気で、意欲的に夢を語ってくださいました。
笹木 こんにちは。
今年は、何度かお話しする機会がありましたね。
偶然、道でお目にかかったときにはビックリしましたけれど、考えてみれば清水さんのお宅の近くでしたものね(笑)
清水 11月から家事代行をしているんですよ。あの時もその帰りでした。
笹木 清水さんのホームページは見たことがあるんですが、今話題の収納でしたよね?
清水 そう、それもしています。“物”にそれぞれ住所を決めてきちんとそこに戻すことを、一緒に考えたりしています。
メグビーの箱は白くて綺麗だから、引き出しの高さにカットすると整理にとっても便利なの。Qやミネラルの小さいのはアクセサリーの仕分けに使うといいですよ。
笹木 私も早速利用してみます!
清水 明治乳業の広告で筋肉を使った後、2時間以内にタンパク質をとろう!という広告を見たんですよ。牛乳を飲めという広告なんですけどね(笑)
それを見てからは喉が渇いたらお茶ではなくて、牛乳や豆乳を飲むようにしたんです。今年の夏は暑かったから、一日に2パックか3パック飲んだかしら。プロテインはもちろんいつもどおりに飲んだ上で、牛乳をプラスしたんです。
肉体労働だから仕事から帰るとお腹がペコペコで、夕食を作りながらつまみ食いをしたり、ものすごい量を食べていたのに、お腹がすかなくなったんです(笑)
結局ダイエットになって、痩せられたのよ!!
それに、この猛暑の夏、仕事を乗り切れたことが自信につながりましたね。
今でも定期的に検査に行くんですけれど、数値は悪いのよ。だって血小板だって普通の人の10分の1位しかないしね。
先生には脾臓を取った方が良いって、言われるけど、手術は絶対にしないわ。
紫斑病の対談(にゅーすあ・ら・か・る・とNo.290)を読んで私と同じだって思ったの。
笹木 えっ!紫斑病?筋無力症じゃなかった?
清水 実はあれから紫斑病にもなってるの。
笹木 話が前後してしまうけれど、父との出会いからお聞きした方が良いですよね(笑)
清水さんのお義母様とは父の自宅の勉強会でご一緒でしたが、勉強会に出席したきっかけは?
清水 義父が無熱性肺炎になった時に、「熱は出ないけれど、仕事をやめてストレスを無くすしかないです。」と医師に言われて会社を経営していたんですけれど辞めて治療に専念したんです。そんな時に、整体の先生から三石先生を紹介していただいたんですね。
でも義母はサプリメントが何かもわからなくて「これが身体に悪かったらどうしょう。」と言いながら、父だけに飲ませるのは心配だからと、二人で同じ量を飲んでましたよ(笑)
先生の処方どおりに飲んで、1年後の血液検査ではまったく正常になってました。
その後も両親は飲み続け、義母は勉強会に出席するようになったんです。
笹木 とても熱心でしたよね。勉強会の日にご主人と息子さんと3人でいらして、父と話していたのを覚えていますよ。
その時、お義母様から筋無力症ではないかと気がついたのは、ここで勉強していたお陰だと、父に話してたのを覚えています。
清水 義母は美容院をやってまして、住み込みの若い人に比べて私(25歳)の体力が無いのが気になっていたようです。
8時か9時には疲れて起きていられなかったけれど、子育て中だし当たり前としか思ってなかったの。
その頃、お友達の結婚式があるので実家に帰ることになった時に、義母に「ちょうど良い機会だから大きい病院に行って検査をしてきたら?」って、言われたんですよ。
ずっと、気にしてくれていたみたいです。
笹木 その頃の体調はどんなでしたか?
清水 夕方になると目を開いているのが辛いし、何か食べても手で口を押さえないとこぼれたりしてましたよね。
検査に行ったら、すぐに重症筋無力症だと診断されました。そう、“重症”が付いたんですね。この病気は長くかかるから近い病院の方が良いということで紹介状を書いて頂き、すぐに診察に行き手術は1ヵ月後に決まりました。
28歳の時です。
笹木 それで父のところに?
清水 そうです。三石先生は「亜鉛不足ですね。手術の必要はありませんよ。」と。
でも、主人も私も先生にはじめて会ったわけですし、手術の日は決まっていたのでやめようとは思いませんでした。
手術までの1ヶ月ヒトフード、A、Eなど大量に飲んだら、手術の前にはすっかり症状はなくなりました。
胸腺が肥大していたのを取ったんですが、10日で退院できたのは、体力があったからですよね。
飲み始めて丸5年経った時には、若いときより元気になったんです。若い時はしょっちゅう貧血をおこしていたし、夜は8時9時には寝ていたんですけど、徹夜が初めて出来たんですよ!
笹木 その時に父が亜鉛不足だと言っていたので、(新発売の)メグビーミネラルが良いって道で会った時にも、言ってらしたんですね?
先日もお友達に勧めてましたものね。
清水 彼女は、今でも1日おきにステロイド60ミリを飲んでます。20年以上ステロイドを大量に飲んでいても全然副作用がでないのはメグビーを飲んでいるからだって言ってますよ。
笹木 60ミリってすごい量だと思うんですけれど・・・
清水 「重症筋無力症 友の会」っていうのがあるんです。私はこんなに元気なので同病の方の力になりたくて、ずっとお手伝いをしているんですけれど、あの方もそこで知り合ったんです。友の会では60ミリ飲んでいる人が結構いますよ。
私は全く(ステロイドを)飲まないでこんなに元気ですけれど、その分大量にメグビーは飲んでます(笑)
笹木 ステロイドを飲まないのに、症状が出ないって凄いことですよね?
全くステロイドを飲まなくなったという方は少ないわけでしょ?
清水 そうですね。
そのあと、閉経の頃に体調を崩しましてね。
自分では更年期かな?と思っていたら病気だったんです(笑)。これも自己免疫病。
紫斑病になったんです。
友の会のお友達が入院したのでお見舞いに行った帰りに、たまたま献血車がいたので献血をしようとしたら検査ではねられたんです。何回も検査して、血液内科に行くように薦められたんですね。
その結果、紫斑病が見つかったんです。
この目の赤いのも2、3日で消えるんですけど、紫斑病のせいなんです。ほら、手にもいくつか痣があるでしょ?
笹木 免疫病を二つも抱えてしまったんですね。
清水 私の場合は自分で自分の血小板を壊してしまうということなんです。
でも、壊したらその分作ればいいわけですからね。
血小板も普通の方の10分の1位しかないんですよ。だから、お医者様には脾臓を取りましょう、と言われます。
笹木 脾臓を取ればいいわけですか?
清水 だめですよね。
でもね、私は病気では死なないって思っているの。寿命で死ぬと、思っているのでやりたいことをして死にたいわ。
三石理論があれば押し返す力があるから大丈夫(笑)私とメグビーとの出会いは健康食品との出会いじゃなくて、考え方なんですもの。
先生に「人の灰皿になるな。」って言われたことがあるんです。
笹木 灰皿になるな??
清水 ええ。哲学的なことだと思うんですけれど、灰皿はタバコを吸う人にとっては必要だけれど、吸わない人には何の価値もないわけですよね。
先生は良く「対自存在」「対他存在」の話(サルトルの哲学論)をなさったけれど、対他存在にはなるな、ということだと私は理解しています。それと、「学習者として生きるべし」を、実践したいと思っています。
笹木 その力が今の仕事にも活かされているんでしょうね。
清水 最近ママ友と久しぶりに集まった時に、今の若いお母さんたちは頭が良くても家事が出来ない人が多いから、お料理とか片付けとか母親が教えるような家事一般を教えることをしたい、と話したのよ。
今の若い人たちは私のような第三者には聞くけれど、親や姑には聞かないし相談しないで、ネットで調べるんですね!
でも、ネットの調理法を見ても言葉がわからなくて作れないんですよ。
ママ友たちには口をそろえて、「私たちが今考えることは、これから何をしよう。じゃなくて、老後をどうやって過ごすか。じゃないの?!」と、言われてしまって(笑)
笹木 身体や頭が働くうちはいろいろ夢を持って行動したいですよね。
父がメグビーを創立したのは80歳ですもの(笑)
清水 放射線の問題も先生ならなんと言うだろうか?とか、最近の気象も先生が言っていたとおりになってきているけれど、今ならどのように言うのかな?
なんて、考えますよね。
笹木 確かに父の言っていたように気候が変化してきていますね。以前、そのようなメールを頂いたことがありましたよね?
清水 私は三石先生に基本的なことを教えていただきました。
身体はブラックボックスだけれど、二重らせんの材料のアミノ酸やビタミン、ミネラルをとっていれば、自分の遺伝子はちゃんと働いてくれると確信になるわけですよね。
使ったら食べる。使ったら食べる(笑)・・・単純なのよ。
だから私には、メグビーの大量投与はかかせませんね。
外でお腹がすいた時には何を食べようかな?と、選ぶより、メニューを見たらどれが、プロテインスコアが高いかな?と考えて食べるようにしていますもの。
うどんよりもお蕎麦、そして温泉卵。っていう感じです。
笹木 すごいですね!!父のうちの勉強会はいつごろからの参加でしたっけ?
清水 義母と入れ違いで「分子栄養学序説」の講座がスタートした時からですね。
息子はひどいアトピーで断食をしたり、いろいろ試しても良くならなかったんです。
手袋はさせたんですけど、無意識に掻くから、毎晩枕は血で真っ赤でしたね。
でも、メグビーに出会った4歳ごろから、メグビーボーン(当初は顆粒状)を潰したメグビーAで練って、夜寝る前にドリンクと一緒に飲ませ、チャンプはいつも持ち歩いて飲ませてました。
チャンプはタブレットだし、おいしそうに喜んで食べましたよ。
あの頃はSはまだなかったんです。メグビーSを飲んだらもっと早く良くなったと思いますね。
給食が食べられなくては困ると思って、入学前には1年かけて普通食が食べられるようにしました。
笹木 入学前に治ってよかったですね!!給食が食べられないと親子ともに大変ですものね。
でも、ボーンをAでといたら、すごい味でまずかったでしょうに、よく飲んでくれましたね。お母さんの努力もすごいけれど、息子さんも偉いわ。
清水 だって、こっちだって必死ですもの。抑えて無理やりにでも口に入れて飲ませましたよ(笑)
Aだって、カプセルに入っているから私たち飲めるんですものね。確かにうちの息子、本当に偉かったですね(笑)
いろいろ助けられて、三石先生と出会えたことは私の人生の財産です。
笹木 そう言っていただけると、とても嬉しいです!
今日はありがとうございました。
清水 晴恵 様:1957年生まれ 56歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第10回衣笠 弘志 様 (67歳)
衣笠さんは三石理論研究所の研究生の第2期生ということで、宿泊研修でも中心になって活躍していただいていました。
父が亡くなったころからお仕事が忙しくなられ、疎遠になっていましたが、思い切って講演会へのお誘いのメールを出してみました。
当時は予備校で、今は高校で英語を教えていらっしゃいます。私も懐かしい仲間とまた一緒に勉強することが出来るようになって嬉しいです。
笹木 今日は対談ということで、研究生だった頃の話をお聞きしたいと思っていますので、よろしくお願いします。
最初にお聞きしたいのはメグビーとの出会いですが、お嬢さんのご病気がきっかけでメグビーを始められたと記憶しているのですが・・・
衣笠 そうです。娘が小学4年生の7月に若年性関節リュウマチの疑いがあると診断され、夏休みに検査入院したんです。
その時に三石先生に毎週マッサージをしていた林スズエさんから、先生を紹介してもらって、電話でご相談したんですよ。
アトピーの治療の為にタンパク質を制限していたことなどを私が話した後で、先生は「活性酸素が悪さをしていますね。」と、これが私の耳に今でも残っている先生の第一声です。
数日後 、担当医に「活性酸素はどんなものですか?」と、聞いてみたんです。
「活性酸素?衣笠さん、試してみたらどうですか?」って、まじめな顔で言いましたよ。
笹木 全く知らなかったんですね?
何か民間療法だと勘違いしたのかしら?
衣笠 それを聞いて、こんなトンチンカンな医者に任せておけないと思いました。
大学病院の部長ですよ!
帰りに娘は、笑いを我慢するのが大変だったと言いましたよ(笑)
信頼できる先生なら「良く判らないので、調べてみましょう」と言うのではないかと思うんだよね。
検査入院はもう40日にもなっていたので、三石理論でやろう!と決断し、数値を知るためだけの通院に切り替えました。
笹木 父が活性酸素のことをよく言っていたけれど、私たちだけではなくお医者様も勉強してなければ、知らなかった時代だったということですね。
それから10年位して新聞で活性酸素の文字を見かけるようになって、今では当たり前のことになりましたね。
衣笠 今から25年くらい前のことだから活性酸素なんて言葉は市民権を得ていませんでしたからね。
退院後一時は悪化して、やっぱり医者が正しかったのか?と少し弱気になったこともありました。三石理論か医者か、私にとっては大きな賭けでしたからね。
でも、その年の大晦日に高熱を出したのが最後で4月には数値は正常になったんです!
しかも、アトピーも治りました(笑)
三石先生と始めてお会いした時に直感的な出会いを感じてたので、先生にお誘いを受けてすぐに木曜日の勉強会に参加するようになったんです。
初めての勉強会は1991年9月の第2木曜でした。
笹木 勉強会に出てどうでしたか?
衣笠 今までにない体験でしたね。
非現実と現実との差を感じた、というのが最初の感想かなぁ。
とにかく始めての言葉ばかりで強烈な体験でしたね!映画館から出てきたような感覚になりました。
三石先生の話を聞いて自分の生活を変えようと思ったんですよ。それで、積極的に参加するようになったんです。
笹木 研修会の企画も意欲的でしたものね。
衣笠 それにみんなと一緒に勉強していくことが好きだったので、宿泊研修も参加するのが楽しみでした。
先生とお話していた時に総合的な司会とか進行係ならやれますと言ったんですが、僕の能力も判らないのに、良く任せてくれたと思います。
笹木 だって、研究生になってからの話ですよね?
衣笠 いいえ。その前ですよ(笑)
伊豆の宿泊研修でお手伝いをしたり司会をしたりしてから、「研究生になりませんか?」と、先生に言われて、よし!頑張ろう、と思ったんですよ。
笹木 誰もが学ぶということに意欲的で、同じ思いの人たちが集まっているという連帯感があって、楽しかったですね。
衣笠 本当に楽しかったですね。僕は伊豆大学からの参加で勉強し始めて半年くらいしか経っていないのに司会をしたんですよ。札幌のSさんなんかも手伝ってくれたしね。
かえってゼロからのスタートだったから出来たのかもしれませんね。余分な知識が無いからね。それに若かったから意欲に燃えてたけど、今考えると無謀でしたよね。
先生はもっと僕の能力を確かめてからの方がよかった、って思ったかもしれませんよね。
笹木 父は失敗を恐れずに、何でも出来ることをやってごらんなさい、という人でしたから。
衣笠 とにかく、先生は勉強の場を作ることが上手で、参加した人たちそれぞれの能力を引き出すんですよ。
笹木 そういう場を提供することがとてもうまかったですよね。
それで、みんなやる気が出て、楽しく勉強できたのだと思います。
衣笠さんが企画してくださったのは伊豆大学、三三大学、森林大学?
衣笠 そうですね。
三三大学って名前は僕が考えたって知ってました?
森林大学なんていうのは会場が森林公園(埼玉県)だったということで単純に付けたんですけどね。
笹木 えっ!そうなんですか?
ネーミングの好きな父がつけたとばかり思っていました。
衣笠 聖隷三方原病院での三石先生の研修会だから両方の三を取って三三大学はどうでしょうか?って、先生に提案したら、「いいですねぇ!」で、即決です(笑)
それに、太陽がサンサンと輝くイメージだったんですよ。僕は事務局をやってましたからね。
笹木 なかなかいい名前を考えたんですね。
三三大学は聖隷三方原病院の栄養士さんたちや医師の本永先生、薬剤師のYさん、お医者様の卵だったS君など50人位参加して、本当に活気がありましたよね。
衣笠 あのころが一番燃えていて楽しかったなぁ!
予備校の教師をしていたので、1日減らしてもらって研究所の仕事を1年間しましたよ。
私としては早すぎたと思って1年で辞めさせてもらいました。まだ勉強不足でしたから。
笹木 三三大学の時のようなグループ学習をもう一度してみたいと、考えてるわけですよね?
衣笠 そうだね。専科(三石理論研究所の半田所長の月1回の勉強会)のあとの復習会もそんなイメージだったんだけど、時間も短いし中々難しいですね。
笹木 森林公園で研究生だけの宿泊研修も何度もしましたね。本になる前の「21世紀は存在するか」という、父の手書きの原稿をコピーして勉強しましたよね?手直ししながら勉強して結局「21世紀への遺書」という題名になって出版されましたね。
原稿の製本は衣笠さんがしてくださったと記憶しています。
衣笠 (対談依頼の)メールにそう書いてあったけど、ぜんぜん記憶に無いんだよね。
でも、確かにこれは(表紙に“笹木さん”との手書き)僕の字だよね・・・・・
(中を見て)あっ!思い出した!!
やった。やった。懐かしいなぁ。こういう製本の仕事もしたことがあるので得意なんだよ。僕は企画したり製本したりするのが好きなの。
宿泊研修は札幌のSさんと一緒にやったんだよ。懐かしいなぁ。
良く勉強したよね。
笹木 このメモを見ると出版社の方も出席してますね。
衣笠 原稿の読み合わせをしながら、みんなの意見を聞いて先生が書き換えていったものが出版された時は嬉しかったなぁ。
自分の気づかないところで細胞は努力してくれ、そこでは自分の意思は働いていないわけでしょ?
メグビーを飲むのはマクロだけれど、身体に入るとミクロの世界で勝手に働いてくれてるよね。
笹木 私達の年齢になっても元気でいられるのは、実践していることだと思うのよ。
衣笠 基本的なことを一緒に勉強する場が必要だよね。それと、笑うこと。
最近、笑いがいかに必要かということを感じているんだ!
どのくらい摂ったらいいんだろうかと難しく考えるより、細胞が欲しがっているんだから摂ればいいじゃない、と単純に考える人がいてもいいんじゃないの?
難しいことは解らなくても、ヒトフードは生命の基本なんだということだけは理解してもらいたいし、実行して欲しいと思うよ。だって、自分の身体のことなんだから。
笹木 勉強は熱心でも、それとこれとは別、みたいなことがあるのよね。
残念だけれど、それは仕方の無いことなのかもしれないですね。
宿泊研修の思い出などお聞きして、あの頃のお仲間とまたお会いしたいなぁ。と、とても懐かしくなりました。
今日はありがとうございました。
衣笠 弘志 様:1946年生まれ 67歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第9回林 スズエ 様 (87歳)
猛暑の東京から、頬に当たる風の気持ちの良い那須高原の林スズエさんのご自宅をお訪ねしました。林スズエさんは林式運動法を考案され1987年から父が亡くなる数日前まで、マッサージをしてくださっていました。
笹木 大変ご無沙汰しています。
父の身体のことは林さんにしか分からないので、お聞きしたいと思っています。
父とはメグビーの出来る前からのお付き合いだと思いますが、父との出会いはいつですか?
林 紺野治療院に勤めていた時だわね。社長が息子さんを連れてきたのが最初よ。
笹木 えっ!!私たちがきっかけなの?
林 そうなの。当時私が勤めてた紺野治療院に、社長が赤ちゃんをおぶって先生に連れられて来たのが最初。
笹木 それはビックリしたわ。
長男が小児喘息だったので父はとても心配してくれて、黒田研究所の光線治療器を買ってくれたり、どこで調べたのかリンパマッサージを受けさせてみようと、渋谷の紺野治療院には父に連れられて行ったんです。
父が受付で「まだ小さくて強いマッサージはかわいそうなので、女の先生にお願いします。」と言ったら林さんが担当になってくださったのよね。
それが父との最初の出会いだったんですね?
林 紺野先生はリンパマッサージを考案した先生で、筋肉が硬くなると身体に変調が来るということを自分の身体を通して知って発表した当時話題の先生だったのよ。
私はそこに10年勤めて、それから自分で治療院を開いたのよ。
笹木 私も次男をおぶって通ったので、肩が痛くて一緒にマッサージを受けましたよね。
最初はパウダーをつけて施術したら真っ赤になって「皮膚が薄いのねぇ」って言われたの。でも、次に行った時には、やり方が変わっていて治療着の上からさするようになったような気がするんですけど・・・
林 紺野先生の方法や野口体操や指圧の資格を取ったのは浪越先生の所だったので、それぞれのいいところを取り入れて試行錯誤して今の運動法にたどりついたわけなの。
パウダーはあなたが真っ赤になったので、皮膚の薄い人にはダメなんだと分かったからすぐに止めて、それからは使ってないわね。
笹木 私たち親子がきっかけだったとは、今まで知らなかったわ。
父の所にも随分長い間往診して下さってましたよね?
林 そう、メグビーが始まる前からですもの本当に長い間、通ったわねぇ。
毎週行くようになる前に先生から電話があってね。
酪農大(北海道)に講演に行くのに、腰が痛くて動けないので来て欲しいって電話でね。私は胃潰瘍で20日以上入院していて退院してまだ2~3日経つか経たないうちでね。「先生どうしても講演に行きたいんですか?」と、お聞きしたら「行きたいです!」と、おっしゃってねぇ。
200人も集まるので、キャンセルは出来ないからタクシーで来いって。(笑)
帰りはご主人(前社長)が送ってくださったけれどね。
2回治療したらピンシャンしてね(笑)誰も気が付かないほど元気に講演なさったみたいよ。
笹木 それは申し訳ありませんでした。
で、林さんの胃潰瘍の方は大丈夫だったんですか?
林 主人は死ぬかと思ったって言ってたわ。だって血の塊をはいて主人と弟に抱えられて入院したのよ。三石先生にお聞きしたらピロリ菌がいたんでしょう。ということで、退院後にピロリ菌退治の薬を飲んで完治したのよ。
笹木 今では常識になっていますけれど、まだピロリ菌なんて世間では言ってませんでしたよね?それで、林さんが飲んだ後に父と主人が続けて飲んだわけですね?
私は半信半疑でしたけれど、いつも痛がっていた主人がそれからは一度も痛いと言わなくなりました。
林 毎週往診に行くようになったのは1987年からなの。先生と奥様とお二人を治療するから一日中、先生のお宅にいたのよ。それで、患者さんには用事があったら先生のお宅に電話するようにって言うほど何年も水曜日は朝から夕方まで先生のお宅でしたね。
笹木 林さんのマッサージは2~3時間はやりますものね。
林 そうよ。 1時間くらいで身体全体をほぐすなんて無理!!チョコチョコって揉んでも、その時にはスッキリするけれど、すぐに元通りになるでしょ?
笹木 父は肩こりなんてしたことがないと言うのが口癖でしたよね?
林 でも先生の背中を触ってビックリしたのよ。鉄の塊みたいなんですもの。
ものすごく硬くて、手が入らなかったんですもの。
そのうちに、「もうこりは取れましたね?」と言うようになって(笑)
この治療法を本に書けって言われたのよ。「こんな治療は感覚的なことでどうやって言葉で表すんですか?先生が書いてくださいよ。」って言ったら「確かに難しいですね。僕にも書けませんね。」って。(笑)
仕事が忙しくて先生に頂いた本も中々読めなかったけれど、今は毎日先生の本を片っ端から読みなおしてるの。本当にすごい先生だなと思ってねぇ。
笹木 このあいだ五月書房の社長さんが、先生のように読みやすい本を書ける人は今はいませんって。
林 そりゃそうよ!難しいことを誰にでも分かりやすく先生みたいに、書ける人はいないわよ。三石先生って人は本当に偉大な人よね。
それに、先生の胸の厚さは半端じゃなかったわね。
朝行くと必ず運動をしていてね。外に行かない代わりに毎日運動して鍛えていたんだもの。頭もすごいけど、先生みたいな努力家もいないわよ。
笹木 そうだったわね。毎日毎日古くなった運動器具のきしむ音が聞こえてましたよね(笑)
林 先生は散歩をするのは時間の無駄だけれど、家にいても運動は出来るし、90歳になっても筋肉は鍛えられる。ってね。ある意味、合理主義者よね。
あんなに胸板の厚い人みたことないもの。私の診た男の人の中では一番だったわね。
笹木 林さんはスポーツ選手も診てたでしょ?その中でも?
林 アイスホッケーの選手たちの太ももは半端じゃないけど、そういう人たちよりもずっと胸板は厚かったわね。先生のあの身体は努力した結果だと思うわ。
笹木 でも胸板が厚いのは生まれつきのものよね?
林 それもあるかもしれないけれど、鍛え上げたって感じよね。
ブルワーカーは随分前からやってたでしょ?
笹木 そう私の子供の頃からね。それが良かったのかしら?
そのほかはクライマー、ボート漕ぎ、自転車漕ぎなどの運動器具が、部屋中においてありましたよね。(スキーや水泳以外の)運動は好きではなかったけれど、自分なりの運動は毎日してましたね。
林 毎朝ベッドから起きる時には身体を振る運動を教えたのね。それはずっとやっていたみたい。自分でいいと思ったことはちゃんとやる人だったわね。
(あの身体は)いろいろやった結果じゃないのかなぁ・・・・
笹木 良いと思うことは徹底的にやるって人でしたね。
林 この歳になって、先生の書いたものを読むとそうなんだな。私もそうしなくちゃいけないんだな。って思うのよ。本当にすごい人だったわねぇ。
笹木 栄養のことだけではなくて生き方とか考え方とかを教えていただいた。って皆さん言ってくださるものね。
林 私もそれを教えていただいたのよ!
笹木 そういう意味では父は幸せよね。何年経っても皆さんの心の中に生き続けているってことですものね。
林 それは先生が偉大だったってことよ。
本当にすごい人だったわねぇ!!だから先生の本を毎日何かしら読むようにしているわ。仕事をしていた時には忙しくてなかなか読む時間が無かったから、今は毎日読んでるの。
先生の本はちゃんとした裏づけがあってそれを私たちにわかりやすいように書いて下っているでしょ?
笹木 息子たちが理系に進んだということをあんなに喜んでくれたんだから、それが親孝行だったと思ってるの。
林 そうよ!本当に喜んでいたもの。
先生の頭脳を受け継いでいるんだから、二人には頑張ってもらわなくちゃ(笑)
ご主人が先生の頭の中を見てみたいってよく言ってたわよね。
笹木 そう。口癖みたいにね(笑)
メグビーを二人の孫が継いでくれたんだから、父は本望だと思うわ。
話はまた戻るけれど、林さんのマッサージは独自の方法だって事ですよね?
林 そうなの。患者さんの反応を見たり自分の身体で試したりしながら出来上がった林式運動法なのよ。
それはすべての関節を動かすことね。関節の稼動範囲が広くないとだめなのよ。
可動範囲が狭くなることで体調が悪くなるんだから。それと、腱関節と股関節を動かすことね。
この方法をみんなに教えたいというのが私の最後の夢なの。
林式運動法を一人でもやれる人がでて欲しいと思っているの。
出来たら子供たちに教えたいのよ。子供のうちに私の方法を知っていれば、いつでも自分の身体のケアーが出来るようになるでしょ?
栄養のこと運動のことをこれからの人たちに理解してもらうのが私の最後の仕事だと思ってるのよ。
そして、先生に言われたように本にもしたいと思っているの。
笹木 夢を実現させてくださいね!目的があれば元気で頑張らなくちゃ!って、思えますもの。
今日はありがとうございました。久しぶりにお目にかかれて、いろいろ伺えてとっても楽しかったです!!
林 スズエ 様:1926年生まれ 87歳(インタビュー時)
※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません
第8回河東 あや 様 (89歳)
笹木 昨日(2013年5月29日)から入梅で例年に比べて1週間ほど早いそうですね。
雨が土砂降りだったらと、心配していたんですけれど、ちょうど晴れ間に来ていただけて良かったです。
河東 傘を差さないで此処まで来れましたよ。
笹木 津田塾の教え子でご健在なのは河東さんと半田さん(三石理論研究所所長)のお二人だけになってしまいました。
今日は私の知らない父のことをいろいろ聞かせていただけるかと、楽しみにしているんです!
河東 本当に懐かしいわ!
多恵子(社長)さんと長男が同じ年だったので、よく遊んだのよ。
先生が遊んでいるところを8ミリだか16ミリで撮ったのに、フイルムが無くなってしまったと、言われてね。それが残念。
笹木 私も見てみたかったです。父はカメラが好きで、よく撮ってましたよね。
早速ですが、河東さんが津田に入られた頃は、女性が大学に行くのは珍しかった時代ですよね?
河東 そうねぇ。お金のある家か娘にも教育を受けさせたいと親が思った家庭よね。家はお金持ちではなかったけれど父が学者だったから教育を受けさせてもらえたんだわね。
当時は津田英学塾と呼ばれていたけれど、英語だけでは時世に合わないし、学校の存続も危ぶまれていたので、物理学科と数学科が出来たんですよ。
それまでと全く違う雰囲気で、若い私の頭脳をくすぐったのよね。
英文科の課外授業に“科学史”をやるというので、当時3年生だった私は飛びつきました。全部で8人位の参加でしたね。
ダンネマンの「大自然科学史」をやりましたが、お天気のよい日にはキャンパスの芝生に座っての講義でした。
これがその時のもの。津田のキャンパスなんだけれど、写真だけ見ると戦争中とは思えないでしょ?
でも、翌年に入学した学生達は国民服で登校しなければならなくなったのよ。
笹木 そうですよね。戦争中ですから英語を勉強することは段々に難しくなってきますよね?
河東 そう、戦争が激しくなってきたら英文科の授業は中止。それでも勉強したい学生は寮に入って日立製作所の下請けの仕事をして、夜に英語の勉強をしました。
笹木 私は戦後生まれですから、父は私が中学に入った時に英語は勉強しなくていい。アメリカ人が日本に来た時には日本語を話せばいいんだから、こっちが合わせることはない。と言ってました。
でも自分は学生時代に勉強したので英語もフランス語もドイツ語も話してましたけれど・・・・(笑)
津田時代の父はどんなでしたか?
河東 気どってた!!(笑)
笹木 「気どってた。」の一言ですか?(笑)
でも、想像できるような気がします。
河東 私は卒業後2年間、先生の助手をしていたんですよ。
結婚を期に辞めたんですけれど。
笹木 物理の教授の助手ってどんなことをするんですか?
河東 実験の道具が手に入らない時代だったので授業に必要なものを探すのが仕事なのね。
そして、その日の授業に必要なものを整えて、自分も聴講するわけですよ。
先生と友人(助手)と3人で、授業が終ると国分寺の町をよく歩きました。
食糧難だったので、何か食べ物を探しながら町を歩くんですが、ある時蛇がいたんです。
先生はすぐに捕まえて殺してから、すましてボストンバックに入れて持ち帰ったんです。
後で、「あの持ち帰った蛇はどうしたんですか?」と、お聞きしたら平然と「食べましたよ!」って。
笹木 エッ!!!蛇を食べた??
河東 そういう時代ですよ。何しろ食料がなくて動物性タンパクが不足してましたから・・・・
笹木 祖母(巌の母)は何より蛇が嫌いだったのに、騙されて食べたのかしら?
河東 先生のお母様にもお宅に伺った時にお会いしてますよ。
戦後毛糸も手に入らなかったので、古い毛糸を蒸気で伸ばしてセーターを随分編みましたねぇ。
空襲で焼けなかった古いセーターをほどいてね。精一さん(三石巌長男)にもセーターを2枚編んで差し上げたら、(大学の)入学試験に着て行くと喜んでくれたのよ。
私も子育てが終ってから金曜日の勉強会に参加するようになって、また、定期的に先生にお会いするようになりました。
笹木 神田の学士会館でしたよね?毎月2回の勉強会は最後まで続けてましたね。
金曜の夕食は祖母が亡くなってからは母と二人で、手抜き料理や私の好きなものを作ってくれて・・・。今と違って外食をすることは無かったので、その時に始めて冷やし中華を食べました。
学校であったことを面白おかしく話すと、母はお腹を押さえながら大笑いして涙を流すのが楽しくて・・・懐かしい思い出です。
河東 先生は若い頃は外を飛び回っていたので、奥様はご苦労なさったと思いますよ。
奥様が大病をなさって、少し変わられたんじゃないかしら。
私もいくつか大学は変わりましたが、30年間教えてました。
物理学科ではなくて英文科なのよ。それで、最後は文理情報大学の英文科の主任教授だったので、夜しか時間がなかったのよね。学士会の勉強会は夜だったので、出席してました。時間があればその仲間と海や山に出かけ、夜には先生を囲んで読書会をしました。
日本ではまだ新しい分子生物学関係の本を沢山読みましたね。
先生とは随分スキーにも行きましたよ。
笹木 菅平の春スキーですよね?
菅平には年に何度も行くので、一式預けてありましたからね。
河東 学生時代にも誘っていただいたけれど、父が反対するので行かれませんでした。
ご一緒したのは子育てが終ってからですね。
最初は雪の上に立っただけで転んでばかりでね(笑)先生には「河東さんは滑れるようにならないかな?」なんて、言われましたけれど30年も一緒に菅平に行ったお陰で、運動神経の鈍い私でもそれなりに滑れるようになりましたよ。(笑)
笹木 私も大学の時に2度ほどお友達と一緒に参加したことがあるんですよ。
昔のスキー靴は革靴なので痛くないから、ウエアーを着てスキー靴を履いてリュックを背負って、列車に乗りましたよね?
そういう格好だから滑れたのか“せに下り”(背荷くだり??)と言って、帰りはスキー場から駅まで1時間くらいかけて狭い尾根を滑って降りてきたのが、一番の思い出です。
私のお友達は何度も転んで駅に着いた時にはウエアの膝やお尻が破けてました。(笑)
夜はみんなで頭脳ゲームみたいなことをしましたね。
河東 私はそんな難しい所には行かなかったわ。
笹木 話は戻りますが、学士会の勉強会は津田の卒業生だけだったんですか?
河東 いいえ。学校の先生とか名前は忘れたけれど何人か男性もいましたよ。
笹木 学士会の勉強会で分子栄養学の基礎が出来上がったわけですよね?
河東 そういうことになりますね。途中からは分子生物学の読書会でしたね。
そして、その仲間を中心にしてメグビーが誕生したわけですから・・・・
笹木 1979年に長崎出版から出た「動物が地震を知らせた」も、勉強会の成果だと思っているんですけれど・・・・。
河東 そうですね。
みんなで沢山の本を読みました。あの時のお仲間は誰も居なくなってしまって寂しいです。でも、今日は先生のアルバムやいろいろなものを見ることが出来て楽しかったわ。
笹木 それにしても河東さんはお元気ですよね。どこも悪いところはないんですか?
河東 頭!!! 他は元気だし、眼鏡も要らないんだけれど、頭がねぇ・・・・(笑)
先生は最後までお元気で、理想的な死に方でしたよね。
もし100歳まで生きてらして、人の世話になったりするのはお嫌だったでしょうからね。
100歳までの5年間、原稿も書けず講演もできないのは、お辛いでしょうから。
墜落死を望んでた先生らしい最後だったし、先生も本望だったと思いますよ。
多恵子(社長)さんたち家族の生活も心配のないようにして逝かれたんだから・・・・
笹木 そうですよね!
懐かしいお話を聞かせていただいて、楽しかったです。
蛇の話は最高でした!(笑)
どうもありがとうございました。また、遊びにいらしてください。
河東 あや 様:1924年生まれ 89歳(インタビュー時)
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