長年愛用いただいているお客様と弊社代表笹木多恵子との対談。

第37回真鍋和子様 (69歳)

私が初めて出会って影響を受けた科学者でした

真鍋さんは大学1年の同級生です。2年で転科したことも児童文学の道に進んだのも、父の影響だったことを初めて知り驚きました。何気ない会話の中で、いつの間にか真鍋さんを作家の世界に誘い込んだようです。ちゅら海水族館の人工尾びれのイルカの話は読みましたが、子供向けの物は真鍋さんが書かれたそうなので、機会があったら読んでみようと思っています。

笹木  お久しぶりですね。先月(2月)がメグビーの35周年だったけれど、私たちも今年で70歳。“光陰矢のごとし”というけれど本当にあっという間でしたね。
私は人生のちょうど半分をメグビーと共に歩んできたと言うことになるのよね。(笑)

真鍋  本当にねぇ。私が先生に初めてお目にかかったのは清泉に入って「生活科学序説」の講義を受講した時ですね。多恵子さんも取ったでしょ?

笹木  母が父親はどんな講義をするか聞いた方が良いというので、取りました。(笑)
自分も父親の授業を受けたけれど、家庭での父親と女学校での父親の違った面を見られて良かったからと言うんですもの。

真鍋  三石先生は一度も休講なしでしたね。
1時間目で遅れないようにあの急な坂を登って、しかも4階で大変だった。(笑)
各学部の1年生のほとんどと、シスターも受講していたから300人位いたかしらね。
科学的な根拠を持って体調などを判断することもお話しなさったわね。

笹木  あなたは2年生で国文に転部したでしょ?

真鍋  三石先生の影響かな?
1年の時のサークルはESSで、ランチタイムに英語で話す位なんだけれど、英語漬けで喜んでいた時期だったので、三石先生と個人的にお話することもなかったわね。

笹木  では、“めるひぇん”のサークルに入ったのは、かなり後なのね?

真鍋  そうなの。英語と言っても稚拙なことしか言えないわよね。それで物足りなくなって熱が冷めてきた時に、先生が講義の後で“めるひぇんの会”という児童文学の同人誌のサークルのことを話されたの。
「書くということは素晴らしいことで、女性の生きがいになりますよ。」と。生きがいがあるって素晴らしいって、心を動かされました。
それで、私も参加したんです。そこでは、私たちが書いたものを読んで、それを聞いて先生が批評して下さるわけなの。

笹木  皆さん卒業してからも続けていて、ずっと父と関わっていたでしょ?

真鍋  三石先生はいくつも勉強会や読書会を持っていらっしゃり、そのお仲間や津田の卒業生たちとのスキーに誘われて、菅平に何度もご一緒した時でした。
いつも岡谷駅で10分位停車すると、ホームから土蔵がずっと続いているのが見えるの。
実家はお寺だから土蔵なんて珍しくもないのに妙に気になって、先生にあれはなんですか?ってお聞きしたら、今は味噌蔵だけれど、昔は繭の製糸工場だったと教えて下さったのが、処女作「千本のえんとつ」との出会いなんです。
先生には「原稿を書きなさい。」と言われていたけれど、ここからが先生の策略よね。(笑)私がとても興味深く見ていたからでしょうけれど・・・
でも私は先生の策略にのせられたことが幸せだったし、感謝してるのよ。(笑)
岡谷には製糸工場があって10歳にも満たない少女達が周りの村から連れて来られて、今でいう児童労働ですよね。そういうことを先生が話して下さったのね。そんな歴史があったということに凄い衝撃を受けたんです。
学校にも行けず、働かされた少女達がいたということがすごくショックで、私でも調べたら少女たちのことがもっと分かるかもしれないと思ったの。

笹木  何か書いてみようと思ったから調べたわけよね?

真鍋  最初は調べないで想像だけで書いた、稚拙な作品を先生にお見せしたんです。触発されたのは当時ベストセラーになっていた山本茂美の「ああ野麦峠」なの。
ここからが三石教育なんですけれど「製糸工場で働いた人たちがたくさんいるはずだから、取材をして書けばいいんですよ。」って、アドバイスを頂いたわけです。
自分が物を書けるなんて思ってもいなかったけれど、書くことは憧れでしたね。
本が好きだから教師になるとか、図書館の司書になるとか、そんな生き方が出来ればいいと思っていたのね。
先生のお宅が近いこともあって、伺うようになったの。
先生の魅力は、昔からの因習に囚われないで、ひとつひとつ科学的にきちんと物事を確かめて明らかにして、そこで得た知識で判断すること。誰が何を言ったとか、世間ではこう言っているとか、ということには囚われないのよね。
まさに、私が初めて出会って影響を受けた科学者でした。
“科学は人間の内面を自由にする”と言う言葉が心に残っているし、受け売りをせず自分の言葉で語ること、書くこと、想像することは素晴らしいことだと話してくださいました。
先生のお話を聞いていたら目の前が明るくなって、自分で調べて得た知識で判断をして、自分の責任で書いても良いのではないかと思うようになったわけですね。
少し話がそれるかもしれないけれど、1960年代の末から70年代は大学紛争、安田講堂事件などがあったけれど、そういう情況がメグビー誕生の時代背景としてあると思うの。
当時、自由な研究会がものすごく盛んだったのよね。先生だけではなくて、色々な所でやっていたことが背景にあると思っているのよ。

笹木  そんな時に父は学生を集めてはいろいろやっていたので、大学としては脅威だったと思うのよ。何度か学長に呼ばれて父が何か企んでいないかと聞かれたもの。

真鍋  そんなことちっとも知らなかったわ。じゃあ、あまり居心地が良くなかったのかしらね。
私が作家として、生きて行こうと決意した背景にもなるけれど、日本の社会全体、文化も演劇も絵画も音楽も学問の世界ももちろんそうだし、科学で証明できないことでも恩師の言う事には従わなければならないという風潮がまだ残っていたと思うのよ。
でも、間違いは、間違っていると言える時代になってきて、それは、先生が若い時から求めていたことだと思うし、干からびた権威を否定していらしたと思うんです。
アメリカから文献を取り寄せたり、論文を読むという勉強の仕方でしたよね。
先生は、恩師がこう言っていたからその中で生きて行くとか、研究者として出世をするということではなくて、学者として歩まれたと思うんです。
そして、その時代の学生たちにエールを送っていて、いつも私たちの見方でしたね。
学生は学生なりに、社会人は社会に対しての疑問をいつも受け止めてくださいました。
勉強しようとする人に対して先生は本当に応援してくださいましたね。

笹木  お寺さんに生まれて、なぜカトリックの大学に入ったの?

真鍋  私の実家は、四国八十八か所の札所で真言密教の寺ですが、お遍路さんの心の拠り所として日々明け暮れていてね。弱者救済の思想というか、そういう行いを実践することが、とても大事だと父からよく聞かされていたの。それって仏教でもキリスト教でも共通する宗教の普遍的価値観ですよね。だから違和感はなかったわ。
父も娘たちをキリスト教の学校に入れたかったのよ。清泉をとても気に入って、ここでなければ学資は出さないって言われちゃったわ。(笑)

笹木  私たちの入学は1966年でしたね。

真鍋  そう、早稲田大学の学資値上げ反対闘争から始まった大学民主化の闘いが全国に吹き荒れた時期だったけれど、清泉学内は静かでしたね。
でも兄弟が東大とかの学生だったりした人も少なくなかったから、学外の動きを気にしていましたよ。
私も卒業したら就職するんだから、社会の動きには関心があったわ。学生たちが「もっといろんなことを知りたい」と三石先生に打ち明けると、御宅で「岩波新書を読む会」という読書会を立ち上げて下さったのよ。
『明治維新と現代』(遠山茂樹著)や『ヒロシマ・ノート』(大江健三郎著)とか、なつかしいわ。
結構難しい内容で、私は一行一行きちんと読み取っていく本の読み方の基本をここで学びました。
レポーターになったらもう大変。他の資料も読まなければとね。
三石先生は、学生たちにこういう形で勉強の機会を与えてくださったのね。
先生は、物事を知らない者に対して、実に丁寧に接してくださいました。

笹木  児童文学創作の会「めるひぇん」で作品を書いていたでしょ?

真鍋  短編中心でしたが、同人誌に掲載した作品がポプラ社の編集者の目にとまって、長編に書き直してみないかと言われたの。
お宅には、先生への原稿依頼で、講談社やポプラ社などの編集者が多数出入りしていましたね。奥様はお茶を出すので忙しくしていらした。
当時『ビーグル号航海記』を翻訳出版されて、名訳だと評判が高かったんですよ。
ちょうど多恵子さんがお里帰りをしていた時でね。パイプオルガンの横にベビーベッドが置かれていて、玉のような赤ちゃんを抱っこさせてもらったのよ。

笹木  『千本のえんとつ』の取材で、岡谷に泊まって当時の話を聞いたんでしょ?

真鍋  先生のご親戚のお宅にスキーの帰りに連れて行っていただいたの。
ご主人は内科医だから生糸女工さんたちの健康診断や病気の時には薬を出していたので、工場や女工さんの様子を詳しく話してくださったの。
近所には、70代のおばあさんたちが手繰りで糸をとる工場がまだ残っていたし、博物館や機械でやっている工場にも連れて行ってくださったのよ。
奥さまにもとても良くしていただいたわ。

笹木  おとなしくて優しいおばあちゃんだったでしょ。

真鍋  翌日には工場で知り合ったおばあさんの自宅に伺って、若い頃の女工時代の話を聞かせてもらいました。
本当に純粋で少女たちの立場でご自身が見てきたこと、感じたことを話してくださいましたね。

笹木  貴重な体験でしたね。

真鍋  このときの取材で得たことをどう作品化していくか、悩みながら、夢中で文章化していったの。
作品が出来上がると、出版社に渡す前に、先生にみていただきました。
先生の指導法は、とてもシンプル。
原稿を音読しなさいっていうだけなのよ。すると、書いている時は気が付かないけれど、声を出して読んでみて突っかかるところ、うまく繋がらないところがすぐに解るのね。
「ああ、ここおかしいですね。」って言うと「そうですね。」と頷かれるのよ。そういう時の先生の表情、いまでも目に浮かびます。(笑)
この繰り返しで出来上がったのが、『千本のえんとつ』なの。
ノンフィクションの文学を子供に読ませようと、児童文学の業界が活気付いてきたし、大人の物もノンフィクションのジャンルが関心を集めてきた時代でしたね。
児童文芸新人賞を受賞したとき、先生も来てくださいました。その後、大学図書館の司書、中学や高校の国語教師をしながら、ずっと書き続けています。書くことが、私の生きがいになったのよ。

笹木  父とのやり取りが土台になっているんですね。

真鍋  日大芸術学部で講師をしていたとき、ゼミでの作品指導は、もっぱら三石方式でいきましたよ。体験的にこれ以上良い指導法はないと確信していますから。
「受け売りをせずに自分自身の言葉で書きなさい」って言われたことも忘れられないわ。
先生は人間の創造する力を最も高く評価されていて、それを自らも実践していらしたのよ。
健康問題や科学の研究会を持っていらして、多数の論文を取り寄せて理論的な構築や検証を積み重ねていって、それをご自身の言葉で語るという作業を繰り返しなさっていましたね。それが後々三石理論を誕生させ、「メグビー」へと繋がっていったのではないかと思っているのよ。
「ビタミンE健康法」「ビタミンC健康法」は、私も若いときから影響を受けたわ。
そして忘れられないのは、私たちにいつも自信を持たせてくれたことが、どんな時でも前向きに生きていける力に繋がっているのだと思います。
私にとって、三石先生は真の恩師ですね。

笹木  今日はどうもありがとう。これからも子共たちが興味深く読めるような本をたくさん書いてくださいね。

真鍋 和子 様:1947年生まれ 69歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第36回垣田敏彦様 (51歳)

医者が三石先生の理論を認めているわけだからすごいですよ

垣田君は父とマンツーマンで毎晩勉強した元社員です。あとにも先にも社員に父が勉強を教えることはありませんでしたし、あんなに楽しそうに自分の考えを話していた姿は見たことがありませんでした。ご家庭の事情でメグビーを辞めることになりましたが、今でも仕事の上で勉強したことが役に立っていることを知り、父も喜んでいることだろうと思います。

笹木  お久しぶりですね!最初にお目にかかったのは、宿泊研修でしたよね。

垣田  そうです!丸沼の夏の研修会ですよ。

笹木  ペンションを借り切って、夜も遅くまでお喋りして、賑やかでしたね。あの頃は、まだ高校生でしたよね?帰ってすぐにあなたから手紙が届いたのよ。(笑)

垣田  エッ!そんなことがありましたか?

笹木  とても長い手紙で、メグビーで働きたいと書いてあったの。

垣田  そうでしたね!何を書いたかは覚えてないけれど、書きましたね。(笑)

笹木  どうしてもメグビーで働きたい、勉強したいという手紙に感動して大切に取ってあったからどこかにあると思うのよ。

垣田  研修会に行って、メグビーで働きたいと思ったんです。17歳の時です。

笹木  あの頃の研修会は、男性の参加が多かったですよね。垣田君の他にも勉強したいという若い男性が何人も参加して活気がありましたね。勉強の合間にストレッチを教えてもらったり、夜は本永先生がギターを弾いてくださいましたね。
ところで、メグビーで働きたいと思ったきっかけは?

垣田  父が治療院をしていたこともあって、医療に頼らずに食品で健康になるってすごい事なんだと、高校生なりに思ったんですね。
そういうことを勉強できることは、非常に素晴らしいと思いましたよ。

笹木  それに魅力を感じたということですね。
垣田君はバスケット部で、部員が怪我をしたり、調子が悪くなったりしたらマッサージをしたりしてましたよね?

垣田  そうです。そうです。よく覚えてますね(笑)
10年位前までは卒業した高校のコーチをやってましたが、仕事が忙しくなって辞めました。

笹木  入社してからは夕食後、毎日父とマンツーマンで勉強していましたよね?
「可哀そうだから、せめて一日おきにしたら。」って、父に言ったのよ。そしたら、「嫌がってる様子はないよ。」と、父は嬉しそうに笑ってましたよ。
分子栄養学を学びたくて広島から上京してきてくれたことが、とても嬉しかったと思いますよ。毎晩2時間位勉強してましたよね。

垣田  時間は長かったけど嫌ではなかったですよ。だって、毎日ご飯食べさせてもらえましたから(笑)手料理も美味しかったけれど、特にウナギが美味しかったです。(笑)

笹木  垣田君はご相談も受けてましたか?

垣田  相談は全部三石先生でしたから、僕は倉庫で荷造りですよ。送り状を出したり、何しろ手計算の時代でしたから、月末は忙しかったですね。まだパソコンを導入したばかりで業者が教えに来てましたね。経理はソロバンでしたよ。

笹木  懐かしいわね。いつもソロバンの音がしていたもの。
そんなことより、父の思い出を聞かなければ(笑)

垣田  講演会で、ビデオを撮るのが僕の役目でしたから、ゆっくり講演は聞かせてもらえました。
誰もメガビタミンなんて言わない時代でしたから、最先端の話を聞かせてもらっているんだと思っていましたね。それが今30年以上たって、現役の医者が三石先生の理論を認めているわけだから、すごいですよ。
今サプリのブログランキング1位で「サプリソムリエ」として有名な宮下さんが、ブログで三石先生の理論、分子栄養学は凄いって書いてますよ。
その方は自分でサプリを作っているので、商売敵ですけど三石先生の理論を認めている人が一人でも多く居ることが僕は嬉しいですね。

笹木  メグビーは患者さんに勧めにくいですか?

垣田  そうですね。健食を売られるのを嫌う人もいるのであまりセールスはしていませんが、栄養がいかに大切かを伝えるようにしています。何かいいものがあるか聞かれた時に話すようにしています。なかなか協力できなくてごめんなさい。
あの頃は、半田先生が毎月公開講座をやっていたし、研究生の鈴木さんも勉強会をしてましたよ。

笹木  鈴木さんは子育てが終わって戻ってきて、今はセルフケアルームというのを東京と大阪でしています。

垣田  その他、研究生は森山さんと久保谷さん(対談:2015年11月号)が電話相談をしていて、荷作りのパートさんもいましたね。

笹木  荷造りもインフォメーションを折って発送するのも、全部社員やパートさんでしたからずいぶん何人もいましたよね。
話しは戻るけれど、父にいろんな質問をして、帰ってからも勉強していて偉いなぁって思いながらお茶碗を洗ってましたよ。(笑)
母も長い時間なのにそばに座って、うなずきながら聞いてましたね。(笑)
次男は垣田君のアパートに泊まりに行きましたよね。まだ小学生だったから、お兄さんのように思っていたんでしょうね。会いたいと言ってましたよ。

垣田  懐かしいなぁ。話していたらいろいろ思い出してきましたよ。

笹木  今の仕事は、整体ということでいいのかしら?

垣田  そうですね。治療院というか、整体をすることにより自分の治癒力を上げていくことで、「自分で治せるカラダ」になるお手伝いをしていく施術をやっています。
ボキッ!てやるような整体ではなくて、軽く触って調整するというやり方ですね。更に、栄養を摂って自然治癒力を高めるお手伝いをすることなんです。
僕がメグビーにいたころに父が倒れて、母は一人で治療院を切り盛りしていましたが、その時は力を入れてやる施術だったんです。
昼間は父の介護をしながらここで治療をして、夜はホテルで出張治療をするという生活を5年間もしてくれたんですね。
それですっかり指を痛めてしまったんです。僕の今の治療方法なら母のようにはならないです。

笹木  それで、メグビーをやめて帰ることになったんですものね。

垣田  帰るまでの5年間、必死にこの治療院を守ってくれた母には、心から感謝しています。やっと、少しずつ恩返しをさせてもらっています。
母は大変だったと思いますよ。うるさいオヤジでしたからねぇ(笑)
実は母が手の手術をして昨日退院してきたんですけれど、回復が早いのはやっぱりメグビーをしっかり摂っているからだと思いますよ。それに、あの辛い5年間耐えられたのも、毎日欠かさずメグビー製品を大量に摂っていたお蔭と確信しています。

笹木  お父さんは楽しい方でしたよね。お母さんはきっとおとなしい方なんだろうな、お会いしたいなぁと思ってました。あなたが辞めてからもずっとお年賀状頂いていたけれど、やっとお目にかかれて、今日はうれしかったわ。
垣田君の年賀状はいつも家族写真だったから、奥様にも初めてお目にかかった気がしないのよね。小学校の先生をしている御嬢さんが今年ご結婚でしょ?おめでとうございます。

垣田  本当に早いですよね。この仕事をして、もう27年ですから。
一緒に治療している先生はもともと患者さんだったんですが、脱サラして僕のやっているスクールに入って、資格を取って働いてくれています。

笹木  頑張っているのね。患者さんが仕事としてやりたいということは、垣田君の治療で体調がよくなったということだから嬉しいですよね。

垣田  そうなんですよ。

笹木  1人だったら風邪も引けませんものね。

垣田  ところが二人同時にインフルエンザに罹ってしまったことがあって、10人位はキャンセルできたんですけれど、連絡できない人もあって大変でしたよ。
多分患者さんから移ったんでしょうけれど、まさか同時にひきます?!(笑)
「大丈夫、インフルエンザじゃありませんから」とか言って、連絡の取れなかった患者さんにはやりましたけど、土・日が入っていて助かりましたよ。
僕の仕事は三石先生に教えて頂いたことをベースに、食事の指導をすることですね。
現代医療の在り方はおかしいと思っているので、薬に頼らないで人間の持っている自然治癒力を上げることが大切だとお話しています。
常に勉強ですよ。新しいことを取り入れていかなければダメですからね。

笹木  これからもがんばってくださいね。本当に懐かしくて、楽しかったです!
お仕事を休ませてしまってごめんなさいね。東京に来ることがあったら、ぜひ、連絡して下さいね。今日はありがとうございました。

垣田 敏彦 様:1966年生まれ 51歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第35回本永英治先生 (59歳)

視点が全く違うんです。細胞レベルなんですよ

本永先生ご夫妻の中に今もなお、父が生き続けていることがとても嬉しく、父がお二人をとても大切な友人だと言っていたことが、昨日の事のように思い出されました。
門までご夫妻で迎えに出てくださって「この家は先生が原稿を書く部屋も用意していたのに、(亡くなってしまって)一度も来て頂けなかったのがとても残念です。」と、開口一番に言って下さいました。

笹木  今日は診察でお忙しい中、お時間を取って頂きありがとうございます。一番父と近い方だったので、“対談”は本永先生のお話を聞かなければ完結しないんです(笑)
父にも聞いたことがなかったのですが、父と交流を持ったきっかけを教えて頂けますか?

本永  1985年12月6日の沖縄タイムズに三石先生の「無知という弱点」と言う論壇が載りました。文章の流れが論理的で読みやすいのでどんな人だろうと思ったことと、健康食品が蔓延していて患者さんが選択に戸惑っているので、どうにかならないかとずっと考えていた時期だったので、三石先生に興味を持ったのです。
それには、妊娠中に玄米食をしていたら、鉄欠乏症の貧血の赤ちゃんが産まれた女性のことを例にとって、「玄米に含まれているフィチン酸が原因なのに、そういう知識もなく健康ブームに躍らせられていいのだろうか。」と書いてありました。
自宅の住所が載っていたので1986年4月に感想を書いてお手紙を出したら、1週間くらいで先生から返事と「健康食総点検」(現代評論社 1978年発行)が送られてきたんです。
お目にかかったのは、那覇の講演会を聴きに行ったのが最初です。
新聞に住所が書いてなければ、先生と出会えなかったですね。
その後全集(全28巻)を読んでは、感想を書いて出しました。最初に読んだのは「科学との出会いを求めて」、次は「大学の原点」でした。
お返事には健康に関する疑問が書いてあり、文通をしていてとても共通な所があると何度も思いました。
「文明の解体」と「人間への挑戦」の2冊が発展したものが「21世紀への遺書」で、この本の中に先生の考え方が良く書かれていますよ。

笹木  「21世紀への遺書」は父が亡くなってまだ遺骨が自宅にある時に、刷り上がりました。父の言いたかったことはこういうことだったんだと、涙が止まりませんでした。
先生とは考え方が同じだったからずっとお付き合いが続いていたということですね。

本永  そうだと思いますね。先生の「偶然と必然」の読書会のテープはMDに保存して聞いているんですよ。念のために全部2枚づつ保存しています。
テープもMDも私の最高の財産です。
笹木さんと一緒に聞きたくて準備してあるんです。(笑)
先生の話し方や声が、とても懐かしいです。
モノーの「偶然と必然」は、何度読んでも難しいので、先生の訳したものをこんな風にスライドにまとめてあるんですよ。機会があればどこかで話せればいいなと思っています。先生の本のなかで僕が読み込んでいるのは「偶然と必然]、「21世紀への遺書」と「心とはなにか」の3冊です。それぞれ10回位読んでいるかもしれませんね。(笑)
この3冊はとても勉強になるし参考になります。

奥様  主人は何かやる時の基本はいつも三石先生なんです。

本永  半年間解剖の勉強をしていた1986年頃、「今度は西表に行くことになりました。」と話したら「それは良かったですね。」と言ったんです。
先輩の医者達は「大変だね。」とか「可哀そうに。」って言いましたよ。僻地で勉強もできないし、設備もないし可哀そうということなんです。
三石先生だけが「良かったね。絶対にプラスになるから頑張って!」と喜んでくれました。
ネパールに行った友達とは「僻地医療を経験したら幅広くなるし、視野が広がるね。」と話しましたが、医者仲間でこんなことを言ってくれる人はまずいないですよ。
頑張ろうと思っているのに、トップクラスの先生達からマイナスなことばかり言われて、落ち込んでいた時に三石先生だけは全然違っていて、僕にとって最高の言葉でした。
先生の一言で、西表に行くのがとても楽しみになったんです。
「絶対にプラスになる。」と言う言葉は奥が深くて、医者よりも凄いと思いましたね。
先生のプラス思考、前向きな考え方は人生もプラスに変えられると思いますよ。
西表では見るもの聞くものすべてが新鮮で楽しかったですね。
先生は奥さんと遊びに来てくださいました。
一緒に泳いだ時、僕は一生懸命に泳いでいるのに、85歳の先生は楽しそうに横になって泳いでいたので、年齢を覚えているんです。(笑)

笹木  “のし” (古代泳法)ですよね?私も父から教わりました。(笑)

本永  私が仕事をしている時には先生は原稿を書いていましたけれど、たまたま3日目に観光客が溺れて心肺停止だったんです。人工呼吸をしていたら先生が来て「ミトコンドリアがもう駄目ですね。」って言ったので、びっくりしましたよ。「なんだ?面白いことを言う人だな。」と思いましたね。視点が全く違うんです。細胞レベルなんですよ。
三石先生は私に「そうですね。命の根源のエネルギーが経たれました。」って言いました。
西表には2回、1週間位づつ滞在し先生は原稿、奥さんは藍(長女)の世話をずっとしてくれました。どの部屋も散らかすので、僕らは怒ってばかりいたのに、奥さんは「藍ちゃんは、お遊び上手だね。」って、遊びながら一緒に片づけをするんです。
そうか、こういうやり方があるんだと思いましたよ。(笑)
西表にはタンパクやビタミンで治りそうな患者さんが何人かいたので飲んでもらいましたし、先生に講演会もお願いしました。私は西表に3年間、次は石垣に5年間いました。三石先生は石垣にも遊びに来られましたよ。

笹木  白い短パンで赤い沖縄のシャツを着て講演をしている写真が残っています。

本永  石垣に行ってからのお正月は、先生が亡くなるまで毎年軽井沢で先生と過ごすようになりました。その頃は子供も3人になっていましたね。
スキーは学生時代に1度しか経験がないのに先生とリフトで上まで行ったまでは良かったんですが降りてくる時に集団の中に突っ込んでしまって、よく骨を折らなかったと思いました。(笑)
石垣の次は神奈川の東海大に3年間いました。
その時の成果がこの本(「人口知能時代の医療と医学教育」-遠隔地医療を担う人材を育てる医学教育―)です。偉い先生方が書かれている本に私も書かせて頂きましたが、「人間の頭の特徴は…」という所の参考にしたのは三石先生の「21世紀への遺書」の中の“頭脳と情報”です。先生のお蔭で“知”のことが書けました。
サルコペニアの原因のひとつと考えられている活性酸素の説明も三石先生の本をたくさん読んでいるから、普通の人よりも頭に入りやすいんです。閾値が低くなっているからスーッと入ってくるんです。同じ年頃の医者は全く理解できないし、若い人でもなかなか難しいようです。

笹木  医大では分子生物学の勉強はしないそうですね。

本永  今年から琉球大学医学部では「Cell(細胞)」と言う本を基礎の時に読むようになったらしいです。分子生物学の知識がないと、深く掘り下げて考えられない医者をどんどん作り出すだけですよ。
1、2年で解剖や分子生物学の基礎をしっかり学んでから、臨床に進むべきだと思います。解剖や分子生物学の基礎がないと、人間を無視してしまうんです。
技術ばかり勉強すると“カテーテルが上手くなった”“内視鏡が上手くなった”で、終わりです。深く考えずにひとつの特徴だけを診て、この治療は役にたつとか、たたないといった集団疫学的方法での治療がEBMという今の医学です。根拠のある治療方針と言われていますが、個体差を無視しています。それが、今の日本やアメリカの医療のもとになっています。
個人や見えない世界が切り捨てられてしまいます。
見えない世界というのは分子生物学的なことで、細胞で何が起こっているかが切り捨てられ、目に見えている現象だけの治療です。
遺伝子や個体差を無視して解剖学的な筋肉の付き方や血管の走行も一人ひとり違うことは考えていないですね。かといってEBMをバカにしているわけではないし8割9割はうまくいくと思いますが、個体差を考えずに統計学的に治療しても、それでは上手くいかない難しい患者もいるということです。
医療では上手くいかない人がかなりいますが、三石先生と出会って、分子レベルや個体差を考えて解決する方法があると思うようになりました。
同じ患者はいないですよ。無限にあるんです。例えば肝硬変でも症状はみんな違うのに、同じように公式を作って、枠にはめても当然治らないです。体質も遺伝的なことも薬に対する反応も違います。微妙に一人ひとり違うんですよ。
大まかな治療方針でうまくいかない時には、個体差を考えて間違いがなかったか考えて、その人に合った治療をすることが臨床です。マクロですよね。そこに分子の視野が入ってきます。先生の個体差の考え方が僕の基本です。
電子カルテばかり打ち込んでコミュニケーションをとらない医者が多いけれど、患者さんの情報を引き出すには話すことです。例えばお腹が痛いと訴える患者さんに「胃潰瘍ですよ。」と言うと、「実は親が胃ガンで亡くなったので、自分もそうではないかと心配していたんです。」と話してくれることで信頼関係が生まれてきます。これが一番大事ですね。それと、身体を触って五感を使って丁寧に繰り返し診ることなんです。

笹木  そういう丁寧な先生の方が少ないですよね。

本永  ここまでやってうまくいかなければ、もう一度原点に戻って、最初から問診し身体所見をとり直します。どこかに間違いがあるわけですから。
過去に病気や怪我をしていないか、遺伝的に問題がないか、心理的な影響があって症状が出ている場合もあるわけです。
よく話を聞くことで大きな検査をしなくてもわかることもありますよ。複雑な検査をたくさんすれば治るわけではないですからね。
問診は時間がかかりますけれど、これが信頼できる医療の姿だと思っています。
「タンパク質が足りないんじゃないの?」「ビタミンが摂れていないんじゃないの?」というように話していくと、薬をたくさん出すよりも喜ばれますよ。9割方はそれで改善されていきますね。
高齢者だと15種類くらい薬が出る人もいますが、薬をたくさん出すだけでは、だめですよ。
信頼関係をもって治療をしていくことと、分子生物学の視点が役に立ちます。
ミトコンドリアの異常や細胞膜の異常で起こる病気なんかも、他の医者よりも多分早く見つけられると思います。
三石先生の頃には解っていなかったけれど、今では膜タンパクのレセプターのチャネルタンパクがあって遺伝子でコントロールされていることが解ってきました。遺伝子の異常が病気の原因になるんです。
いくつかの病気が絡んでいる場合もあるので、総合診療ができる病院の方が安心と言うことはありますね。臓器別の専門では、たらい回しにすることがありますから。

笹木  それで困っている方も多いと思いますよ。

本永  私の病院では田舎だから総合診療医が多いですよ。専門医と半々ですからバランスが取れていますね。
救急車で運ばれてくる高齢者は薬も多いし臓器もあちこちやられているし、耳が遠いとか声が小さいとか、コミニュケーションが取れないことが多いので診断が難しいです。
何処が痛いのかが解らないから、あらゆる検査をすることになる場合もあるんです。
地域社会や家族との兼ね合いとか、個人の抱える多臓器の異常もすべて包括的にみていかねばなりません。

笹木  それで総合診療医、あるいは家庭医が必要なんですね?

本永  総合診療医は各分野の勉強が必要になります。私は還暦で総合内科専門医の資格を取りましたよ。勉強は大変でしたが頭が整理されたお蔭で、すごく伸びた感じがします。
三石先生の勉強をしているから、どんなことも違和感がないし、難しいことに対して挑戦でき、何事に対しても閾値が低く、好奇心が強いですね。

奥様  いくつになっても勉強は出来るということですよね。
主人は何時でも“三石先生”なんです。(笑)
患者さんを診る時にも、個体差を考慮して診断しているんです。三石先生と知り合わなかったら、違っていたでしょうね。
他の医者との違いは先生との出会いがあったことが大きいと思います。

笹木  先生の考え方、患者さんへの接し方、日々の生活のどれをとっても、父が存在しているんですね!

本永  一昔前、脳細胞は一度死んだらダメだと言われていましたけれど、再生できることもわかってきました。環境に順応して自分を変えていく、環境に適応していくことができるんです。

笹木  「脳細胞は甦る」の本を書いた時には、父の仮説でしたから・・・

本永  認知症にならなければという条件付きですけれど、人間の生きる力というのは凄いです。
重力の無い宇宙船に乗って帰ってきたら血圧コントロールが出来なくなるんです。
重力という環境になじまない身体に神経細胞の機能がついていけなくて変わってしまっているのです。
それを戻すのに1月位リハビリをして重力の世界に慣れるようにしていくのですが、環境が違うと神経の働きや機能も異なってくるようです。今までは地球に戻ってきてもなかなか血圧が上がらないのは、廃用症候群の問題だと考えられていましたが、脳細胞が無重力の宇宙船飛行を続ける中で無重力の世界に適応し血圧コントロールに関与しなくなってしまった、つまり別の機能に置き換わったということです。このことを可塑性といいます。
人間の神経細胞には環境に応じて機能が変化する可塑性があるということです。
血圧は必ずしも頸動脈のコントロールではなく脳を介してコントロールしていることが解ったんです。
パーキンソンや神経難病は大脳・前庭系で調節されていた血圧コントロールが、大脳―前庭系神経細胞の機能も関わっていることを疑わせます。宇宙飛行士におこる血圧低下の減少からこのような「可塑性」のことが解ってくるのです。免疫系でも無限の抗体が作れることがわかってきています。これは、凄い発見です。これはさっき話した“Cell”という分子生物学の本に書いてあります。
免疫細胞担当の遺伝子に働きかけて抗体賛成のタンパク構造を変化させるんです。
遺伝子病もウイルス病も早く発見して治療する時代になると言われながら、なかなかうまくいきません。例えば糖尿病には、100以上の形質の種類があるそうですから、他の病気の形質も合わせたら大変なことですよ。
大腸ガンだ、胃ガンだ,肺ガンだ、乳ガンだと調べてもそれぞれのガンに対して、無限の形質があるわけですから防ぎようはないです。

笹木  遺伝子検査で解るようになったのは凄い進歩ですが、検査をしても100%その病気になるわけではありませんよね?遺伝的な病気は誰でも幾つか持っているわけですものね。

奥様  母は50年も重症なリュウマチでしたけれど、絶対に寝たきりになりたくないと言ってリハビリをして、朝と晩はメグビーを飲んでました。
骨髄炎の手術をした時も貧血もなく、メグビーのお蔭だと実感しましたよ。
私は旅行に行くときにもメグビーが無いとダメですね。本当に必要としています。
だから無くなっては困るからよろしくお願いしますね。私の為にも(笑)
三石先生と出会って、すぐに母が実践したんです。
父は脊柱管の手術をして飲み始めました。「手術はうまくいったので後はリハビリを頑張ってください。」と退院させられたんです。手術した病院ではリハビリはしませんからね。
でも首は動かないし寝返りもできないので、島に連れてきたんです。これはメグビーしかないと思って、毎日スムージーにして運びましたよ。
若い人と違って、高齢者の手術はうまくいかないですよ。私たちが反対しても、病院は手術をすれば元気になると言うものだから、父はやりたいわけですよ。

本永  僕のみたところ、手術前とあまり変わっていませんでしたね。
素人だったら、自宅ではリハビリもできないし、手術が上手くいっても家族の協力や多くの人間のサポート体制がないと機能回復は難しいです。多くの患者はこんなものだと思って寝たきりのまま終わるのでしょうね。
今の医療環境では術後は退院して、回復期リハビリ病院か療養型の老人病院に行くことになりますが、このようなシステムですべて解決できるかどうかが疑わしいですね。

奥様  私は昔看護師だから、父や母の場合は自分でサポートできましたから困りませんでしたよ。
今は医者も看護師もあまり病室に来ませんね。私達は、患者さんとよくお喋りしていましたよ。

笹木  私の知り合いは、喉が渇いても吸い飲みは持てないし、ベルも押せないので脱水になって点滴をしたと聞きました。

奥様  それは病院の対応のまずさですよね。動けない人には特に気を配らなくてはいけないと思いますよ。最低限の優しさがあって欲しいですね。

本永  今度はバカンスでゆっくり遊びに来てください。宮古島は綺麗な所がたくさんあるし、星もとてもきれいに見えます。

笹木  先生の書かれたエッセイ『「天の根」~島に生きて~』を読ませて頂きましたけれど、先生の地域医療の取り組み方が素晴らしいと思いました。患者さんとこんなに風に心を通わせている先生の姿に、感激して涙を拭きながら読みました。(笑)
先生のようなお医者様がいらして、宮古島のお年寄りは幸せですね。
いつかメグビーにいらした時に、「島言葉を勉強中なんですが、難しくて・・・・」と、仰ったけれど、こんな風に患者さんと向き合うためには、どうしても必要だったんですね。
今度は遊びに来ますので、その時にはお付き合いよろしくお願いいたします。(笑)
今日は楽しい時間を、ありがとうございました。

本永 英治 様:1957年生まれ 59歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第34回當間光子様 (80歳)

歳をとるほど飲んでいない方との差が歴然としてくるようです

當間さんと初めてお話ししたのは日本平での宿泊研修だったと思いますから、もう30年以上も前になります。
その頃から沖縄の拠点として長年ご尽力いただき感謝しております。
今回お目にかかってメグビー設立前のことや体験談、そして父との思い出話に花が咲きました。

笹木  ご無沙汰しています。お電話ばかりで、お目にかかるのはずいぶん久しぶりですね。お元気そうで何よりです。
早速ですが、當間さんが父を知ったのは、どなたかのご紹介ですか?

當間  三石先生の講演会が沖縄であって、私のお友達が聞きに行っていて、先生の話をして下さったんです。先生がまだ70代の頃ですね。
「とっても不思議な方の話を聞いてきたのよ。」
「この暑い沖縄で涼しげな顔をして、黒板の前を行ったり来たりして講演をしたのよ。とてもお元気で考えられないような方よ。」と話してくれたんです。(笑)

笹木  父は講演中、いつも歩きながら話していましたよね。(笑)
皆さんの反応を見ながら話の内容を変えていくと言っていました。原稿などは用意しませんでしたからね。

當間  そうでしたね。最後まで原稿を見るとか、座るとかは、なさいませんでしたね。
講演会場に、腎臓の機能が半分以下になっているのに、患者さんを診察している元気な先生が聞きにいらしていた、とそのお友達が教えてくれたんです。
私は信じられなかったけれど有名な病院だったので、連絡先を調べて電話をしたんですよ。そうしたら、会って下さってメグビーの製品と「自然治癒の健康相談」(太平出版社 1978年発行)を見せてくださいました。
私は子供が弱かったので少しでも健康にしてやりたくてマッサージの資格も取りましたし、家庭医学の本もよく読みました。子供が健康になるためにはどんなことでも知りたいと思っていたので、健康の事にはとても関心がありました。
「自然治癒の健康相談」は医者の立場と三石先生の立場と両方が書いてありますよね。私が今までお医者様に聞きたいと思っていたことがたくさん書いてあったので、その本をお借りして読みました。
その頃母が白内障だったのでI社のビタミンEを飲んでいたので、先生にご相談したのが最初です。

笹木  その講演会で父が沖縄に滞在していた時に、相談されたのが最初ですか?

當間  いいえ、お会いしてないです。電話です。
ですから、先生と直接お話したのは母がきっかけということになりますね。
しばらくして、姉は集団検診でヘモグロビン値が低いということで、病院から薬が出たんですが、副作用が酷くて起き上がれなくなりましてね。
姉がどうしてもその薬は飲めないと言うので、「どういう風にこのお薬は効くんですか?」と病院の先生に聞いてもお答えにならなかったんです。
それで心配になって、三石先生にご相談して、プロテインを主にしてメグビーを頂いていたら、4か月後には元気になったんですよ!
毎月ヘモグロビン値を測りに行くので、先生にメグビーの話をしたら、そんな食べ物はインチキだと言われたそうですよ。(笑)
私はガングリオンのようなものが出来たり、足のスジをちがえたり、手の指を骨折したり、ずいぶんいろいろありましたけれど、いつもメグビーに助けられています。
手の指を骨折した時は指が反対を向いてしまったので、病院では引っ張って元通りの位置に戻して、テーピングしてくれました。
マッサージのやり方はわかっていましたから、時間さえあれば肌が出ている所をメグビーリキッドでマッサージしていました。鎮痛剤も飲みましたけれど、メグビーはずいぶんたくさん飲みましたね。
ほかの方よりも回復が早かったので、「何をしたか知らないけれど僕の力ではない、あなたが自分で治したんですよ。」と市立病院の先生に言われましたよ。
ですから、メグビーには本当に、助けられています。
タンパクを主にした栄養と言うのは凄いと思いますよ。やっぱりプロテインがないとダメですよ。歳をとればとるほど、メグビーを飲んでいる方とそうでない方との差が歴然としてくるようです。
酷い火傷がリキッドで良くなったとか、自閉症の子供さんが3歳からメグビーを飲み始めて症状が良くなったんですよ。石垣のミンサー織りは難しいので普通は教えてもらえないのに、指導を受けることができたと聞いています。
お友達は乳がんの手術後の放射線治療後、「普通は炎症で赤くなるのに、あなたは赤くならないね。」と先生に言われたそうですよ。
その方はお見舞いに差し上げたメグビーSしか飲まなかったけれど、プロテインも飲んだらもっと違っただろうなと思っています。

笹木  お金がかかることですので、ご家族のご理解と、ご自分でも納得できなければ難しいことだと思います。

當間  先生は「科学との出会いを求めて」(現代書林 1982年発行)を書かれるときに、「主婦は家族の為に毎日のお食事を通して、物事を科学的に考える接点にふさわしいポストであり、市民運動につなげる拠点として皆さんの役に立ってほしい。」と言うようなことを話されたんです。それで、何とか今日までお勤めさせて頂いているつもりです。
私、先生のお誕生パーティーの時にビンゴで先生の色紙が当たったんです!
「漫然として年をとるべからず学習者として年をとるべし」という、あの色紙です。

笹木  毎年ビンゴをしたり、父がエレクトーンを弾いたり…
ずいぶん昔の話になりましたね。(笑)

當間  本当にね。長い方は曾孫さんがメグビーを飲んでいる方もいらっしゃいますよ。(笑)

笹木  それはありがたいです。
今日はありがとうございました。お車ですよね?気を付けてお帰り下さいね。

當間 光子 様:1936年生まれ 80歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第33回湯本晴子様 (82歳)

何十年もメグビーを飲んでいると、やっぱり違うんですね

久しぶりにお目にかかり、とても懐かしくお話させて頂きました。ご主人様やお子様がお医者様だということは存じていましたが、お孫様もお医者様や薬剤師さんであるのに皆さんがメグビーを飲んで下さっているとお聞きして、とても嬉しく思いました。

笹木  ご無沙汰しています。今日はお時間を頂きありがとうございます。
早速ですが、父を知ったきっかけをお聞かせ頂きたいのですが、メグビーが始まる前から父をご存知でしたよね?

湯本  そうですね。主人が病理学者でしたからいろいろなガンのことを耳にしていたんです。私はガンにだけはなりたくないと、かねがね思っていました。
本屋で健康雑誌を開いたら、ビタミンEのことが書かれていて、三石先生のご自宅の電話番号が書いてあったので、そんなにいいものなら飲んでみようと思って、すぐにお電話したんです。ビタミンEなんて聞いたこともないし、当時は誰も知らなかったですよ。

笹木  お医者様でもご存じなかったですか?

湯本  医者も誰も知りませんでしたから飲んでも大丈夫かなと、思うことはありましたが、毎日飲んでいたら調子がよかったので、主人も飲むようになりました。
暫くして先生のお考えの製品が出来ましたが、最初はメグビーの製品ではないものです。

笹木  ということは、40年以上ですね。

湯本  その頃「ビタミンE健康法」「ビタミンC健康法」「高タンパク健康法」など次々本を出されたので、主人と一緒に全部読みました。
米子で先生の講演会があって、お友達に「とても良い話だから聞きにいらしたらいいですよ。」って、お誘いしたんです。米子国際ホテルで30人位集まりました。皆さん三石先生のフアンになってぜひビタミンEを飲みたいと言って、何人かが飲み始めました。
主人は毎年、お教室(鳥取大学医学部病理学教室)の若い先生達をお呼びして忘年会をしていましたが、その時誰かが「湯本先生はどなたを一番尊敬されていますか?」と聞いたんですよ。すぐに三石先生だと、即答していました。「君たちもビタミンを飲まないと、老化はどんどん進むよ。」なんて話しておりました。

笹木  叙勲されるようなお医者様にそう言って頂けて、父も喜んでいると思います。

湯本  箱根で勉強会がありましたね。先生を囲んで和やかな勉強会でした。先生や皆さんと初めてお目にかかって、すごく楽しい思い出です。
次は日本平で富士山が近くに見えるホテルでしたね。あの時は5人位のグループに分かれて勉強しました。

笹木  あの頃は皆さん子供連れで参加されて賑やかでしたね。グループで話し合って、その中の1人が発表したんですよね。

湯本  最後に先生がお話しなさって、楽しく勉強しました。長谷川さん(2014年9月10月で対談)とMさんが同じグループでした。「メグビーをしっかり飲んで、100まで長生きしましょう。」と言って、お別れしたんです。

笹木  長谷川さんはお元気で、もうすぐ100歳です。
私が覚えているのはベージュのカシミヤのセーターを父に下さったんです。父は湯本さんに頂いたと言って、とても大切に着ていました。

湯本  先生のお誕生祝いに差し上げたので、お誕生会だったと思いますね。大きな会場にずいぶんたくさんいらしてましたね。
鳥取大学の浦上先生(日本認知症予防学会理事長)は、認知症について日本で一番お詳しい先生ですが、家族が「あらっ?」と思うくらいの初期なら治せるそうですよ。
先生の本には、ビタミン類をしっかり身体に入れることが大切だと書いてありました。特に葉酸とB12を摂るように書かれていましたよ。脳の神経細胞が活発に活動するので認知症の予防に役立つと書いてございましてね。何も知らなくても三石先生をずっと信じて飲んでいてよかったなぁと、改めて思いました。
先日読んだ本ではアメリカは認知症が減っていて、なる人は年齢の高い人だそうです。それに引き替え日本では増えていて、2025年には65歳以上の人は5人に1人が発症すると書かれていました。

笹木  エッ!気を付けないと(笑)

湯本  アメリカの研究では認知症は薬では治らなくて、頭を使うこと、学習することが重要でそれが一番の予防に繋がるそうです。それで、アメリカでは本屋さんの空いたスペースで勉強会を開いているそうですよ。あちこちの本屋さんで歴史とかいろいろなことを勉強しているそうです。
それに引き替え厚生労働省はそういうことに目を向けないで介護と医療関係のことばかりに向いているので、考え方を変えないと日本の認知症患者は増えるだろうと書いてありましてね。
三石先生はかねがね、学習することが大切で、しかも科学的な本を読まないといけないと仰いましたね。改めて三石先生は凄い方だなぁと思いました。
そういうことも知らずに40年も飲んできたけれど、本当に良かったです。

笹木  父は身体に必要なものを製品化したわけですけれど、今になって言われるようになりましたね。

湯本  この歳になって新しいお友達ができるということはなかなか難しいけれど、メグビーさんのお蔭で山崎さん(対談は2013年3月)とも20年来のお友達のように親しくさせて頂いているんですよ。

笹木  山崎さんも「湯本さんと話していると楽しいんです。」ってよく言ってらっしゃいますよ。

湯本  息子家族も娘家族もみんなで飲んでいるんですよ。夜遅くまで働いて朝早く出かけますけれど、お蔭様で仕事をこなしております。

笹木  息子さんはお医者様でしたよね?

湯本  息子は整形外科で、娘と孫は糖尿病が専門です。孫の一人は薬剤師でもう一人は医大に行っています。

笹木  皆さんお医者様になられたんですね。

湯本  娘はヒューストンにおりました時に、主人の研究室にいた女医さんに憧れたんです。中学1年で帰国しましたが、国語が出来なくて学年で一番ビリでしたよ。(笑) どうしても医者になりたいと、すごく勉強しましたね。
息子は週末には東京の整形外科の病院で働いています。新幹線なのでたいして時間はかかりませんけれど、今が一番学費のかかる時なので大変ですよ。
私は15年くらい前に交通事故にあったんです。高速道路での大事故で普通なら首の骨を折るような事故だったんですけれど、眠くなったのでネックピローをしていたのと、メグビーさんの製品を飲んでいたから今こうやっていられますが、首の骨でしたから寝たきりになっていたと思います。主人は死んだと思ったそうです。
その時医者は、骨が若くて信じらないと言って2度も骨密度の検査をさせられて「間違いだ。」「間違いだ。」と言うんですよ。(笑)でも、2度とも骨密度の数値は同じだったんです!
何十年もメグビーを飲んでいると、やっぱり違うんですねぇ。
あばら骨が2本折れただけでした。シートベルトの下の骨でしたね。それは20日くらいで治りましたが、ベッドに上がることもできないくらい痛くて動けませんでしたよ。仕方がないので、布団を敷いて寝ていたんです。でも、毎日ヒトフードは飲んでいたので治りは早かったです。
息子もお昼はヒトフードです。医者はゆっくりお昼を食べる時間がありませんからねぇ。娘婿も62か3歳ですが、皆さんに若いと言われるそうですよ。ヒトフードをしっかり食べているせいだと思いますよ。

笹木  湯本さんは今何を飲んで下さっていますか?

湯本  ヒトフードにボーン、E、A、Q、FとSは少し多めに飲んでいます。
三石先生のお元気なお姿を思い浮かべながら飲んでいます。(笑)
孫たちもみんな飲んでますよ。頭にいいからと言ってレシチンも飲んでいますが、プロテインが苦手でタブレットにしています。
メグビーさんがこれからますます発展されて、一人でも多くの方が飲んで下さることを心から祈っております。本当に素晴らしい製品ですからね。

笹木  今日は良いお話を伺えて、ありがとうございました。久しぶりにお目にかかれて、とても楽しかったです。また、近いうちにお目にかかりたいです。

湯本 晴子 様:1933年生まれ 82歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第32回山内診療所 院長 関田 孝晴 先生 (51歳)

今の僕があるのは先生のお蔭ですから・・・

笹木  お久しぶりです。お忙しいのに対談の為に、ご上京下さってありがとうございました。

関田  先生にはお世話になったので、その位なんでもありませんよ。今の僕があるのは先生のお蔭ですから・・・僕の住んでいる所は福江島と言って五島列島の中では一番大きな島ですが、一昨日は上五島の病院の当番で、そのまま夜勤をしてから来ました。

笹木  忙しくて、寝る時間がなかったですね?

関田  福岡までの船の中で寝てきましたから大丈夫です(笑)
帰りも、船で寝れば翌日の8時半に着きますからそのまま病院に行かれるので、日帰りの時は船を利用しています。

笹木  早速ですが、父を知ったのは何の本ですか?

関田  三石先生の本ではなくて、食事に関する健康法のことを書いた雑誌の中に、高タンパク、メガビタミンのことが書かれていたんです。
それまで三石先生のことは知らなかったので、本屋で先生の本を捜して読んだのが「成人病は予防できる」だと思います。飲んでみたくてメグビーに電話したら、ちょうど笹木さんが出て、今週は健康相談があるので来ないかと言われて、2、3日後にメグビーに行ったんですよ。
それで、先生も開成で僕も開成だったので、話が盛り上がりました。
お恥ずかしい話ですが、その頃健康オタクで自分の身体でありとあらゆる食事療法を試しましたが、やるごとに体調を崩して不健康になっていきましたね。(笑)
その時は、S式で、ご飯とタンパク質を少しというのを1か月していて、痩せ細って顔色も悪かったと思いますよ。
先生にはS式なんてやったら、体力がなくなって勉強なんかできないだろうって、ずけずけと言われました。(笑) 
本当に粗食でしたが、メグビーを摂って食生活がまったく変わりました。
パン屋に勤めたり気功の治療院でバイトしたり新聞配達をしたりしていた時に、先生とお目にかかったんです。
ある程度やるともう覚えられなくて、記憶が満杯になった感じがして、前に覚えたことがトコロテンのように抜けていくんですね。栄養って大事だと思いましたよ。
それと目が疲れましたね。ビタミンAとか摂れてなかったんでしょうね。

笹木  ご家族とは、別のものを食べるわけですよね?

関田  そうです。御飯に鮭フレークをかけておかずを少し食べる程度でした。そんなのは、だめですよね。(笑)

医学部を中退してまた受験するわけですから、さすがに親の脛をかじるのはプライドが許さなくて、自宅を出て食生活もメグビー中心にして猛勉強しました。
予備校は特待生になれば学費を返してもらえるので、何が何でも特待生になろうと頑張りましたね。メグビーを摂るまでは15~30分も勉強すると目が疲れてできないんです。とにかく眼が疲れて勉強が出来ないって周りに言ってました。
「そんな食生活では当たり前だよ。」って三石先生に言われたのが22年前ですね。
3年浪人して、メグビーを飲み出した年に合格したんですから、僕の場合とても説得力があるんですよ。時間がないからコンビニのおにぎりとプロテインで、本当に頑張れるのかな?と、半信半疑でしたが1年間疲れなかったですね。

笹木  ちょうど受験の1年前ごろに父と会ったのかしら?

関田  1年ちょっと前ですね。3年連続して落ちたのでもうあきらめて、気功の治療院でアルバイトしながら夜間は新中野の気功の学校に通っていました。でも、もう一度受験しようと思って、アパートを借りました。

笹木  私も伺いましたね。テレビもなく勉強机と本箱だけで、もう1年受験勉強したら頭が変になると思う、と言っていましたよね。(笑)

関田  近くの公園にプールがあって、たまにそこで泳ぐのだけがストレス解消でしたね。
何度も言うようですが、先生との出会いが無ければ今の僕はなかったと、本当に感謝しています。

笹木  人生変わりましたね。もしかしたら、気功の治療院をしていたかもしれませんね。(笑)
息子の勉強をみて頂いて、その後は父も一緒にご飯食べましたよね。普段の生活をしている父と接していたので対談したかったのですが、どんな話をしたか覚えていますか?

関田  覚えていません!(笑) いろいろな話をしたんですけれど・・・・
美味しいコーヒーをずいぶん頂きましたね。コーヒーは嫌いだったのに笹木さんの家で飲んでからは大好きになりました。焙煎まではしませんが豆をひいて毎日飲みますね。

笹木  父も楽しそうに、ずっと話していましたよね。何か通じるものがあったのでしょうね。

関田  たくさんお話ししましたが、あの年齢であんなにエネルギッシュなことに驚きました。勉強するのはとてもエネルギーを使います。目も頭も、ものすごく使うわけですからね。ジョギングのほうが疲れるように思えますけれど、むしろ楽ですよ。ですからあの年齢であれだけの体力と集中力って、ものすごいと思いましたね。
腕立て伏せは100回、月に1冊のペースで本を書いていると聞いて本当にびっくりしました。学者はのんびりしているものだと思っていましたけれど、とんでもなくエネルギーが無くては出来ないことだと感じましたね。
笹木さんのお宅で餅つきをした時、僕らと同じように杵を振りあげたのにはびっくりしました。90歳は過ぎていたのにお元気でしたね。

笹木  関田君が大きな臼と杵と蒸し器を買ってきて、社員やご近所の方も呼んで、みんなでやりましたね。懐かしいですね。

関田  先生はずいぶん前からトランス脂肪酸はいけないと本にも書かれていましたが、安いのでいまだに使われていますよね。
パン屋で働いていた時、型に刷毛でショートニングを塗ると、こびりつかないんです。ショートニングとは言わずマーガリンと言ってましたが、バターは堅いから加工しにくいし、高いですからね。

笹木  つまり、ショートニングは無くならないということですね。ケーキ屋さんの前を通った時に、ここはショートニングの匂いがするって言ってましたよね。

関田  先生が本に書かれた後ですが、ニューヨーク市では法律で禁止しています。最近は、日本でもトランス脂肪酸の入らないマーガリンも売られていますよ。

笹木  と言うことは、日本でもトランス脂肪酸が悪いという考え方は浸透してきたんですね。水素添加しなくてもマーガリンができるということですか?

関田  よく解りませんが、薬品では水素添加しても光学異性体の不純物を取り除く技術があるので、出来るようになったのでしょうね。

笹木  トランス脂肪酸のことをお医者様が言うようになったのは、いつごろからですか?

関田  健康法を書くような医者は言いますが、医学部では習いません。多分今でも勉強しないと思いますね。
医者は関心がないと思います。栄養学については昔も今も変わってないですから。
生化学の中で少し勉強するだけで、栄養学の講座というのは聞いたことないです。

笹木  ではビタミンのことは、勉強しないんですか?

関田  そうですね。習うのはビタミンの欠乏症に関することくらいです。
自分の研究している範囲では知っていても、栄養学全般を教えられる教授はいないですね。病院では栄養サポートチームがありますが担当するのは栄養士で、医者は現場に行って栄養士さんから教わることになります。

笹木  一般教養的に栄養学も学ぶようになってきたと思っていましたが、いまだに医学と栄養は切り離して考えられているんですね。

関田  それぞれの分野で覚えることが多すぎて、そこまで学びきれないということだと思います。本当は、一番幹の問題ですけれどね。
三石先生には枝葉ではなくて、幹のところをしっかり教えて頂きました。色々な健康法があるけれど、枝葉の事しか言わないです。やっぱりタンパク質とビタミンをしっかり摂らないとダメです。
医学なんて大したことしてないです。(笑) 栄養の方がはるかに大切だと思いますよ。

笹木  「プロテインを飲んでいる友達がいるけど、筋肉を付けたいのかしらね。」って、話している人がいたけれど、一般にはその程度の認識しかないですよね。

関田  うちの子が中学の陸上部に入ったら、大会の前にアミノ酸を渡されて飲むように言われたそうです。だから運動指導している先生はわかってきているのかもしれませんね。飲んだら全然違ったそうです。
ドクターはハードな仕事なのに、お昼はチョコレートだけ、カップラーメンだけとかそんな感じですよ。だからアメリカではドクターは10年位寿命が短いと言われています。
前田先生はメグビーを飲んでいるから、やっぱりお元気ですよね。

笹木  姿勢も良いし、本当にお元気です。
6月の対談に載った金谷先生が「関田君と是非対談したらいいわ。私もそろそろ五島に遊びに行きたくなってきた。」って(笑)
三三大学(宿泊研修)では、関田君のお父様が迎えに来て下さって、一緒に連れて行っていただきましたよね。金谷先生の息子さんも医学部を受ける前に、五島まで相談に行ったそうですね。

関田  あの時、妹も一緒に行きましたね。浜松で勉強して、どうしてもメグビーで働きたいというので、お願いしたんですよね。

笹木  相模原で遠いけれど、通いきれなければ引っ越しますからと。2月だったので、暗いうちに家を出て、帰りは星空だって言ってました。ご相談日には皆さん今飲んでいる薬のことを聞かれますが、彼女はどんな薬でも即答してくれるので父は感心していました。

関田  金谷先生の息子さんは、仕事も軌道に乗っているのに30歳過ぎて医者になるのに反対されていると言って、相談されたんです。僕は経験者ですから。(笑)

笹木  「反対するのはお母さんだけだよ。」って言われたそうですよ。(笑)

関田  金谷先生は栄養士の中ではカリスマ的な存在です。僕らの業界ではメチャクチャ有名ですよ。 “神の手”と呼ばれる医者がいますが、栄養士の中ではそんな存在です。
先生は匂いを感じて美味しいと思って食べる事や噛むことが、脳の刺激になってリハビリになると言って、見た目でも美味しそうな嚥下食の研究をされています。みんなで楽しく食べるほうが、脳トレよりもはるかにいいと思いますよ。
笹木さんのようにお孫さんに囲まれている生活が一番ですよ。

笹木  どうもありがとう!
ところで、京大には何年在籍していたんですか?

関田  休学も入れて4年です。特に医者になりたいと思ったわけではなく、とにかく大学に入らないと一人前ではないと思っていたんですね。でも前からやっていた空手が面白くて極めたいと思って退学したんです。
今は症例集を片端から読んでいますが、珍しい病気の患者さんがいても、読んでいると対処できますし、医学的な勉強は今が一番面白いです。
勉強すれば役に立って患者さんにも喜ばれますからね。
やっぱり自分のしていることが誰かに喜んでもらえるとか、価値があるとかということが刺激になって覚えられるし、楽しいです。刺激がないと覚えられないです。
先生は分子栄養学という世界で通用する学問を構築したわけですから、本当に凄いですね。

笹木  今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました。

関田 孝晴 先生:1964年生まれ 51歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第31回金谷栄養研究所所長 金谷 節子 先生 (70歳)

三石先生のように生涯現役でいたいですから

笹木  お久しぶりです。タイミングよく東京でお仕事があって助かりました。

金谷  一昨日「ガン医学会総会」の市民講座でアンチエイジングの話をした時、熱心に質問をしていた40代の女性に「三石先生をご存知ですか?」と声をかけられたんです。
「よく存じてますよ。私の人生は三石先生によって本当に変わりました。」と言ったんです。
薬剤師で私の話を聞いて三石先生を知っている方だろうと思ったというんですよ。
振り返ってみて、三石先生に出会わなければ私の人生は全く違っていたと思いますよ。
感謝ですね。
抗加齢学会の前の理事長は、一番最初に活性酸素を問題にした臨床医なので親しくさせて頂いてずっとお手伝いをしているんです。
抗加齢学会は活性酸素がテーマですから興味のある話が多いですが、ヒトゲノムが解読された2003年を境に変わりました。
次男は35歳になるんですが医者になると言い出して、河合塾に通っています。栄養と食事に強い医者になりたいそうです。受験問題で活性酸素が出てくるんです。でも「活性酸素種」と言わなければいけないと注意されます。
今、私は医科大学の臨床研究の倫理委員と、父の仕事を継いで医学部の解剖献体の会長をしています。
昨日も解剖献体の総会がありましたが、慰霊祭ですからとても緊張した空間なんです。
私は学生に「私達は若い人たちへのバトンタッチとして献体をするんです。山中先生が50年前の蛙の実験からヒントを得てiPS細胞を発見し、ジョンカートン先生の古い木に接ぎ木をして新たな展開をしました。若い皆さんもこれを接ぎ木として、将来立派な医師 になって欲しいと思っています。医学の理不尽なことを山ほど経験するでしょう。その時に皆さんの為に身体を提供した方がいると言うことを覚えていて下さいね。」と話しましたが、若い人たちにはどんなことがあってもくじけないで未来を開いてほしいと思いますね。
21世紀は食が医療そのものになると思っています。
放射能も活性酸素対策ですから、あの事故が起こった時に、私はこの為に生きてきたと思いましたね。放射能にはとても対抗できないけれど、もしかしたら道は開けるかもしれない、栄養の問題を抜きにして未来は突破できない、と思いました。
話しが飛びますが、父が老人性掻痒症になった時、私の言うとおりにやってみると言うので、メグビーのA、E、Cを飲ませたら見事に良くなったんです。

笹木  それは先生にお電話いただきました。

金谷  母は、亡くなった日もメグビーのビタミンEを飲んだんですよ!
いよいよ大変な時期に来ていましたから、「どうする?飲む?」と聞いたんです。
殆ど言葉になりませんでしたが「三石先生のだね?飲むよ!」と言って最後の日の朝も飲んだんです。
私の経験ですが、ビタミンEをうまく使っているとご遺体がとっても綺麗なんです。

笹木  そんなことがあるんですか?
私は先生が仰ったことでとても記憶に残っていることがあるんです。
ひとつは、お父様が亡くなる前に「僕が死んでも泣いてはいけないよ。それは襖の向こうに行くことと同じで、悲しいことではなくて神様の所に行くことなんだからね。」って仰ったことと。
「学生たちが本物を触れるように父を骨標本という形にしたので、いつでも私は父に触ることができるのよ。」って、嬉しそうに仰ったそのふたつのことが忘れられないんです。

金谷  ワッハッハ!骨標本って、まるで父そのものなんですよ!!
三石先生はヴァイオリンやピアノや絵とかいろいろなさいましたけれど、音楽や絵が最後に目指すところはサイエンスだけでなく、心がないとダメだと思うんですよ。
三石先生はそういう生きざまをされていたと、改めて思いました。先生は殆ど自己流でなさったんでしょ?

笹木  そうですね。エレクトーンはヤマハの音楽教室を最初に作った方が、メグビーのお客様で、その方に暫く習っていました。エレクトーンをパイプオルガンに改造して頂いて、原稿を書いてはエレクトーンを弾くという毎日で、それがストレス解消だったんでしょうね。

金谷  先生の文章は勢いがありますよね。熟慮に熟慮を重ねて、という書き方ではなくて勢いがあるんですよ。量子力学的な所はきちんと押さえていますからね。
最近主人が先生の本を読んでいて、「一般的にはこうだ。」と書いてあるけれど、この“一般的”というのは何を意図していたんだろうかと言うんです。
医者は違うのではないかという中で、“一般的には”という言葉があったんです。
先生は“言葉の定義”についてよく話されていたけれど、先生の一般論の中には“量子力学”の視点があって、それが世界のルールであるのに、医者たちのやっていることは違っているよ。と言っているのではないのだろうか、と私たちは理解したんです。これがごく最近の我が家の会話なんです。
医者というのはサイエンスではなくて経験論的なことが非常に強いですからね。
“先生はこの言葉をどういう意味で使ったんだろうか?”とか、“三石先生だったらこんなときどうするだろう?”ということが、我が家ではよく話題になるんですよ。
それから主人は三石先生の伝記は「面白い。」って言ってますよ。

笹木  先生ご夫妻の中に、父は生きていますね。とても嬉しいです。
先生のお宅は今も健在ですね?

金谷  ドームハウス?ええ、健在です。先生と皆さんと写した写真が飾ってありますよ。

笹木  父がとてもドームハウスに感動してましたから。

金谷  三角のパネルを組み合わせて60面体のドーム型にした建物で、最も強い形だと言われているんですよ。
私が尊敬する先生で息子も取り上げて頂いたんですけれど、彼が「老後はITさえあれば生きていけるね。僕たちは人が羨むような老後を過ごそうよ。われわれがモデルにならないで誰がなるんだ。」っていうんですよ。今は北海道で高齢者の病院の医者をしているんですが、ITさえできれば生きていけると。

笹木  確かにうちの中に引きこもっていては社会から隔離されていきますものね。

金谷  肉体的な老化はストップできませんが、三石先生のように知的なものは出来るのではないかと思うんです。最低限の情報をキャッチしなければ、ボケ老人になってしまいますからね。三石先生のように生涯現役でいたいですから。
でも、笹木さん言ってましたよね。「怖くて、怖くて、スキーしているのは見ていられないのよ。」って(笑)

笹木  もっと気持ちよく行かせてあげればよかった、と後悔しています。(笑)
「なぜ行くの?もうやめたら。」って、そんなことしか言いませんでしたから。
やりたいことをさせてあげればよかったです。

金谷  でも、先生はやってらしたじゃないですか。(笑)

笹木  軽井沢は20年も行ってましたから、日程は言わなくても解りますけれど、私が嫌な顔をするので、他の所に行くのは前日まで言いませんでしたね。
夕食が終わって帰るときに「明日からスキーだから夕食は要らないよ。」って、初めて言うんです。(笑)

金谷  最後に先生にお目にかかった時に「金谷君、インフルエンザはDNAをズタズタにするから怖いんだよ。」って言ってたのにねぇ。
最初にお話しした神戸で会った方も「先生が亡くなったと聞いた時、ものすごく悲しくてがっかりしちゃった。」って言ってましたよ。
生涯現役ですもの。2週間だけの入院ですから、それで良しとするしかないですよ。

笹木  私も若かったので年寄りなんて意識もしなくて、息子達と同じ食事でしたが嫌がらないし、お刺身が食べたいとか、軟らかい方が良いとか何も言いませんでした。
外食でも和食が良いとは言いませんでしたね。やっぱりお肉でした。

金谷  それがよかったんですよ。年寄りだけで暮らしている人は老化しやすいです。若い人と暮らしていれば若い人中心の献立で、量を少なく食べればいいんですよ。
先生も皆さんと一緒だからよかったんだと思いますよ。奥様と二人で暮らしていたら、老化してましたよ。

笹木  母と二人の食事だったら、話すこともないし、刺激もありませんものね。
歳をとってもご夫婦が揃っている方が羨ましいと思ってましたけれど、それだけではないのかもしれませんね。

金谷  夫婦であっても、それぞれが自立していることですね。最後の瞬間まで自立して輝くということが重要で、知的好奇心を持つということですね。
身体は化学反応ですから、サイエンス性とアート性を持っていることは絶対条件で、サイエンス性を無視して好きなものだけ食べているのは、死に向かっているだけですよ。人間も鮭も同じで、子供をつくるまではそのようにプログラムされているけれど、それ以降は死ぬプログラムだと私は思っているんです。
自分が思うように食べていれば死の方向に行く。それをストップさせようと思うから勉強しなければならないわけだし、身体に必要なものは自分でわかるという人がいますけれど、「それは死への行進ですね。」って意地悪く言うんです。最後の瞬間までサイエンスで、生体はまさに化学反応を起こすわけですからね。《化学反応に必要なものを自分の身体に入れること》これに尽きると思います。だから死ぬまで勉強です。
三石先生のように知的好奇心を持って生きるということは凄く重要だし、私はそうありたいと思っています。
我が家は先生の本が何冊かありますでしょ。お友達が興味ある様子だったので、「三石先生の本をあげるのが一番いいんじゃないの。」って言ったら、「あげないでくれ。」って主人が言うんですよ。「同じ本が、何冊もあるんだから1冊だけあればいいんじゃない?」と言ってもダメだっていうんです。 (笑)

笹木  そうですか。(笑) 三三大学(宿泊研修)の時には、聖隷(三方原病院)にも泊めて頂いたけれど、S君たちは先生のお宅に泊めて頂いたんですものね。

金谷  S君とはいまだに交流していますよ。

笹木  私も五島列島に行った時にS君の社宅に行きました。五島にお家を建ててもうこちらに戻ってくることはないですものね。

金谷  私もそろそろ行きたいと思っているんです。伊勢海老のお味噌汁を作ってくれたんですが、めちゃくちゃ美味しかったですよ。
S君とも対談されたらいいじゃないですか。行ってきたらいいですよ。

笹木  S君は医学部を中退して他の仕事をしていた時に父の本と出合って、もう一度勉強しなおしてお医者様になったんですから、話を聞いてみたいとは思っているんです。
受験の時にもメグビーFの量を増やすと頭がさえると言っていましたけど、もともと優秀だったと思いますよ。

金谷  S君は東大に入ってお友達を何人も連れてきましたよ。医学部の人だけでなく他の学部から医学部に移った人の話を聴いていたので、息子は医学部に行きたいと思った時にS君に相談に行きましたよ。「みんな賛成してくれるのに反対するのはお母さんだけだよ。」と帰ってきて言われました。(笑)
主人が先生の出ている雑誌を見つけて、「お前と同じような考え方をしている人がいるよ。」と言って見せてくれたんです。びっくりしてすぐに先生をお訪ねしたんです。

笹木  先生のことを何かで読んで、父が連絡したのかと思っていたんですが、違うんですね。

金谷  “クォーク”だったかしら?科学雑誌でした。
宿泊研修は伊豆大もトマムも参加しました。
その時に聖隷三方が原病院でやれば病院の管理栄養士達もみんな参加できるので会場を提供するという話になったんだと思います。
トマムは朝から羊羹やお饅頭が出てきてね。私たちは野菜が食べたいので、町まで買い物に行きましたよ。

笹木  そうだったんですか。(笑)
何しろ甘党でアンコをご飯にかけて食べたいって言うくらいですから。(笑)
おはぎは丸めただけだから同じだって言って。ほんとに好きでしたねぇ。 (笑)

金谷  当時インスリンを、忘れることもあるって言ってましたよ。

笹木  最後は風邪を引いてだるかったのか、注射もしていなかったようです。

金谷  多分その頃は朦朧としていたと思いますよ。でも、生涯現役ですから、ご本人は満足ですよ。

笹木  アイスクリームやヨーグルトにプロテインを入れて口に運べば食べるという状態でも、何ていうか、父は死なない人だ、としか思っていなかったので、愕然としましたけれど、仕方ないですね。あそこまで元気で生きられたのですから。

金谷  そうですよ。95まで現役で、最後にスキーもおやりになったんですから。
今でも光り輝いてますよ!私達がいつまでも先生のことを考えているんですもの。

笹木  皆さんの心の中に生きているということは、幸せなことだと思います。

金谷  先生が勉強会の中で「人は何故、非人間的になれるのか。」と言われたので、栄養士の採用試験でよく使いました。それはフランスのバカロレアの試験問題なんです。
事務の人に、なぜこれが専門的な質問なのかと聞かれ「私たちは人の生命にかかわる仕事だから、人間の存在とは何かということが考えられること、答えがどうかではなくて、考えることが必要なんです。」と言ったんです。
先生が言われたように“対象を組み立てる”という言葉は今でも、常に口から出ます。
若い時に出会っていたら、もっと影響を受けたかもしれませんが、私たち夫婦は本当に感謝しています。
先生が「21世紀への遺書」を書いていた時「金谷君、健康だけでは生きていけませんよ。まさに環境問題です。」と。まさにその通りですよね。原発があんな状況になっても、今まで通りの事しかしない医者がいるわけです。この医者たちは戦火の中でもこんななんだろうかと思うんです。だから対象を組み立てて分解して再構築することの大切さを思います。
死んだら又、先生にお目にかかれたらこんなうれしいことはないと思いますよね。
「あなたは生涯、何を頑張ってきたのかな?」って先生に聞かれそう。(笑)

金谷  私も父ならどう考えるだろう?と、思うことばかりなので、聞きたいことはたくさんあるんですけれど(笑)
今度は勉強会か講演会をお願いできればと思うので、その節はよろしくお願いいたします。
今日はどうもありがとうございました。

金谷 節子 先生:1945年生まれ 70歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第30回上智大学名誉教授 渡部 昇一 先生 (84歳)

先生の本を読んで、これは凄いと思いました

笹木  お忙しいのにお時間を取って頂きどうもありがとうございました。

渡部  いやぁ、大先生には大変お世話になりました。特に家内は肝臓が悪いので、先生の本を読んでメグビーSをたくさん飲ませたんです。それだけではないかもしれませんが、肝硬変になるかもしれないと脅されていたのに、良くなったんです。今は何ともないですね。
活性酸素は先生が日本では最初じゃないですか?活性酸素を除去するというのは非常に説得力がありますよ。

笹木  「医学常識はウソだらけ」が出た時に、推薦文を書いていただいたのが、最初ですよね?ずっとお飲み頂いてありがとうございます。

渡部  その前ですね。メグビーを知っていたのでPHP研究所の勉強会にお招きしてお話を伺ったことがあるんです。それで私に書くように言われたんだと思いますね。
先生を知ったのは、産経新聞のコラム“どうぞお先に”です。これは凄いと思って、他の本も読みました。
初めて読んだのは、経済界の「1901年生まれ、僕は現役」とPHP研究所の「医者いらず、老いしらず」です。
クレスト社の社長とは親しかったものですから、先生の話をしたんですよ。それで、原稿を依頼したんだと思いますよ。

笹木  クレスト社の社員全員がメグビーの製品を飲んで下さいましたから、父の考え方を理解して下さったのだと思います。

渡部  私は知識人のお年寄りに興味があって、雑誌社を通じていろいろな方と対談をさせて頂いているんです。先生も高齢でしたからぜひお話ししたいと思ったんです。医者でも自分が80歳まで元気でいられるか自信がないんですよ。(笑)だから、高齢の人は高齢の人の話を聞いて参考にしなくてはダメです。

笹木  先生は95歳まで生きれば、静かに死ねると書いてらっしゃいますよね?

渡部  沢山のお年寄りにお話を伺ってみて90歳では、まだ生きたいんです。(笑)95過ぎるともう充分生きたっていう気になるようですよ。一般論ですが、これ以上生きなくてもいいという気持ちと、死ぬことが怖くなくなるようです。
高齢になるとバイブルもお経もいらないという境地になることを確かめましたよ。(笑)

笹木  先生は上智ですから、カトリックですよね?幼児洗礼を受けていらっしゃるんですか?

渡部  家内は親の代からですが、私は大学の2年の時です。
中川先生(元国際基督教大学学長)というとてもお元気な100歳近いプロテスタントのリーダーの一人ですが、お話を伺った時に「この歳になると死んで神のそばに行くとかキリストのそばに行くとか、そんなことを考える必要は無いですね。虚空に消えるだけでいいじゃないですか。」って仰ったんですよ。キリスト教の大リーダーですよ!
若い人は病気で死ぬから苦しむんです。究極の医学は95歳まで生かせることですよ。
いわゆるボケ老人ではなくて、ボケていない人は95歳まで生きないと気の毒です。それまで生きれば安らかに死ねると思いますよ。ボケたら死ぬのは怖くないんでしょうか?
先生は老齢までお元気で、一番参考になる方のおひとりですよ。スキーに行って亡くなられましたよね?

笹木  軽井沢まで主人と送って行きましたが、友人ご家族と合流するので1泊で帰ってきたんですが、スキーウェアーを脱がせて欲しいと横になったんです。初めての事で驚きましたが、95歳で自分でスキー靴を履いて、板をつけるだけでも凄いことだから、脱がせることぐらいなんでもないじゃないかと主人に言われ、そういうものなのかなぁ(笑)と思いましたけれど、だるいとか自覚があったのかもしれませんね。

渡部  具体的な死因は、肺炎ですか?

笹木  誤嚥性の肺炎です。
食欲が無くプロテインも飲まなくなったので、アイスクリームやヨーグルトに入れて食べさせたんですけれど、「おじいちゃんがプロテインを飲まないなんて考えられないから、すぐに病院に行かなきゃダメだよ。」と息子が言っていると話したら、前田先生の所なら、とやっと納得したんです。孫の言うことには弱かったですね。
入院のお願いをして伝えに行った時には、吐血していて慌てて救急車を呼びました。赤坂までの道のりがものすごく遠く思えて、救急車がとても遅いと感じました。
着いた時には意識が朦朧としていました。1週間の入院でしたが、三日早く来てくれたら助けることができたのに、と言われました。肺が真っ白でした。亡くなった後、調べさせてほしいと言われましたが、どこにもガンもなく、悪いところはなかったそうです。
前田先生には「身体でメグビーを証明しましたね。」と言って頂きました。

渡部  証明しましたね!
クレスト社が本を出したいと言った理由は、僕の話を聞いて社長の打田氏が健康法の本はたくさんあるけれど唯物論者の健康本でないとダメだ、三石先生は精神論がほとんど入ってこないのが良いと言うんです。健康本は精神論が入ってこないものが本物だと社長は言っていました。

笹木  それで父に依頼があったんですね?

渡部  そうです。僕はたくさん偉い老人にお会いしましたが、三石先生は人間の身体を唯物的に見て、長生きする方法を発見されたわけです。
僕は発声法をやっているせいか2時間講演しても大丈夫です。大きな声でアイウエオを全部の筋肉を使って5回言うんです。
僕らの年になると、上品にしているわけじゃなくて声が低くなって出なくなるんです。(笑)

笹木  毎日の発声法で、そういうことはないんですね?

渡部  そうです。50過ぎから真向法もやっていますが、180度近く股を開いてへそから顎までつきますよ。最初はできませんでした。

笹木  健康に気を使っていらっしゃるんですね。

渡部  何もしないで健康なのは家内です。しいて言えばメグビーを飲んでいるだけです。(笑)
音大のピアノの講師でしたが、子供たちに勧められて30年ぶりに弾くようになって指を使うせいか、だんだん若返ってきましたね。
長男はチェロで次男はヴァイオリン、娘がピアノで、私も50年もクラシックを聴いていたら退屈しなくなりましたよ。東北の田舎育ちで、親は浪花節と流行歌でしたから、これは進歩です。(笑)

笹木  父は原稿を書いていて気分転換に夜でもエレクトーンを弾いて、ご近所迷惑だと母に叱られてました。(笑)パイプオルガンに構造を変えてあるので、とても音が響くんです。

渡部  私は物凄い偏食で肉も魚も野菜も食べられなくて、ご飯と納豆と祖母の作った胡麻味噌くらいしか食べませんでした。
初めてすき焼きを食べたのは大学の寮で、こんな美味いものがあったのかと思いましたね。(笑)クリスマスで、進駐軍かどこからか、神父さんがかき集めてきたんです。
母の生れた村では、肉は一切食べないです。子供の頃、鶴岡市に肉屋は1件だけでしたね。

笹木  お肉を食べない地域があるのを初めて知りました。

渡部  普通ですよ、鶴岡市という大きな町でさえそうですから、村に行けば絶対食べません。鶏やウサギは食べますよ。それで、ウサギを1羽2羽と数えるんです。僕のうちは鶏もウサギも食べませんが、鶏卵は子供に良いからと食べさせてくれました。
ドイツに留学したら毎日肉ばかりで、25歳からの3年間でしたが、帰る頃、急に洋服が短くなったんです。僕の経験では食べ物によって28歳でも背は伸びるんです!(笑)
東京ではお米もなくて寮長が「今日は、我慢してくれ!」と、サツマイモと福神漬けを配った日もあるような食生活ですから、毎日肉を食えば背も伸びますよね。(笑)
当時は配給を辞退すると外食券がもらえるんです。コッペパンに薄くマーガリンを塗ってくれるんですが、ドイツではバターを厚く塗った上にハムが載っていて、全然違うわけですよ。
留学すると食べ物が合わなかったり寂しくて、ノイローゼの心配をされますが、僕は助手で行ったので、給料は1万円。飛行機代は片道20数万円でしたから、自分では帰れませんよ。でも、僕はノイローゼどころか嬉しくて、嬉しくて(笑)

笹木  さっき着物を持って行ったと仰ってましたが、テレビでもよくお着物ですよね。

渡部  肩が張るので軽いものが良いんです。原稿を書くときも着物が多いですね。

笹木  先生はたくさん本をお書きになっていますけれど、何冊ぐらいになりますか?

渡部  対談、単行本や文庫になったものを入れると六百数十冊で、総売り上げ数は4000万部だそうです。僕は知りませんよ。僕のことを調べている人が言っているだけですから(笑)
家にいる時は書いているか、食べているか、寝ているかですよ(笑)英語の月刊雑誌なんかは連載50年です。大学や中高の職員室で読まれるので、書くのは日本語です。こんなに英語が盛んになっても、教育雑誌は1冊だけです。

笹木  なぜ日本人は英語が話せないのでしょう?

渡部  話せなくてもいいんですよ。(笑)日本が植民地にならなかったからですよ。
漱石も学生の頃はあらゆる教科が英語だったが、今はすべての教科を日本語で教えるようになってこれは良いことだと言っています。だから英語が下手でもいいんです。
自国語で最高学府に行かれるのは先進国だけです。僕がアメリカの大学で教えていた時に、インド人の教綬に大学は何語で教えているのかと聞かれて、日本語だと答えたら、びっくりしていましたよ。インド語で大学には行かれませんからね。
日本人もノーベル賞を何人ももらっていますが学問の基礎はみんな日本語で学んでいます。海外で研究している人も日本で基礎を学んでから行きますからね。
中国にしても漢字で高等数学や物理は無理ですよ。日本は仮名があるから出来るんです。
僕は50年以上英語を教えていますが、教室で会話をうまく教えることはできません。
大学でそんなことをやったら学問は出来ないです。
会話もできる学生はAFS(交換留学)で留学した子供達です。日本の優秀な高校生を1年間留学させるシステムですから、英語ができる人たちですよね。
教え子が英文法を叩き込まれて、向こうの大学院に入学しましたが、正しい文法で英語が書けるアメリカ人の学生が多いので、教授が彼のレポートを貼りだしたそうですよ。
しかも、大学生の英文を直す仕事をしていました。会話は下手でも、文章での劣等感はなかったそうです。
会話がうまくなるにはその国に住むのが一番ですが、話せる範囲は日常会話だけですよ。それ以上のことは向こうの人だって勉強しなければわからないことで、日常会話を超えることはできないです。
自分は超秀才だと思って海外に行ったのに英語が通じないから、日本の教育が悪いと言うわけです。ところがもう少し長くいると日常会話は普通にでき、論文を書くと物凄く立派なものが書けるんです。
これは、僕も教え子たちもそれを経験しましたね。ドイツに行った時もドイツ語ができないので、会話も最初は英語です。論文は英語で書いてから、それをドイツ語に置き換えたので300ページの論文も超スピードです。1年間会話もできないのに立派な論文を書いたと教授が驚いて、天才だと言われましたよ。(笑)英文法を理解していれば、フランス語でも書けます。
話しが変わりますが、家内が重要なことを忘れたので、ボケが始まったかもしれないから、メグビーFを飲むように言ったんです。(笑)飲んだら頭がすっきりしたそうですよ。

笹木  そうでしたか。お役に立てて、嬉しいです。先生はとてもお忙しそうですね。

渡部  書くのが月にふたつ。3か月ごとがひとつ。口述は月にひとつ。毎週出るのはまとめて口述しています。テレビは1時間番組が月に2本。15分番組が3本。子供向けの30分番組が1本。これは童話や幼児教育の話ですね。

笹木  すごいハードですね!

渡部  驚かれるかもしれませんが「朝日新聞と私の40年戦争」というのも出しました。(笑)

笹木  読ませて頂きました。先生は口述が多いのですね。

渡部  イギリスやアメリカは口述が多いので、僕もやってみましたが、最初は3日かかりました。終わったら頭が空っぽになって、大変なもんだなぁと思いましたが、慣れてきて今は半日で1冊です。やっているうちに記憶力がよくなって、テーマが決まれば、メモもしないで話します。

笹木  書くより早いですね。先生は書斎を持つのが夢だったと書かれていますよね。

渡部  高校の恩師を訪ねた時、書斎には天井まで和書が積まれて、厚い英語の辞書や小泉八雲全集とか碁盤もある中に着物で座っておられてね。先生のような老人になりたいという気持ちで人生が始まったんです。
結婚して小さな書斎を持って人生の目標は達したと思えたのは、上智で教えていた30歳位ですね。同僚のアメリカ人に目標を達したと話したら、変な顔をされましたよ。(笑)
彼が帰国してフルブライト(各分野での指導者を育成する世界的なプロジェクト)と関係を持ったんです。あのおかしなことを言う日本人に、アメリカを見せようと思ったのか、四つの州を回る訪問教授にしてくれたんです。

笹木  先生はご自分の専門外の方とも対談をなさるから知識が広がりますよね。

渡部  話題になっている作家とも対談をしますが、1時間話すと書いた本の言わんとすることが解ります。おもしろい本を書いた人の話を聞きたいですね。
先月は103歳の論語学者と対談をしました。その方は今でも講演をしているんですよ。真向法をやっていて姿勢は良かったですね。

笹木  善福寺公園はウォーキングにちょうど良いですね。

渡部  いやぁ、近すぎて歩きません。(笑)歳を取ったら鍛えよう、なんて思ったらだめですよ。
大先生は歩かなかったでしょ?
笹木そうですね。書斎でボート漕ぎ、ステップ体操、自転車漕ぎ、ブルワーカーと、お風呂でのアイソメトリックスですね。散歩は時間の無駄だと言ってました。(笑)渡部
目とビタミンCの関係。あれは参考になりました。暫くすると忘れますから、先生の本は何回でも読むんです。痛風のような痛みがあった時、聖路加の人間ドックではタンパク質の摂りすぎだから、納豆もいけないと言うんですよ。でも、先生の本にはビタミンAが必要だと書いてあったので、メグビーAを飲んでいたらすっかり治りましたよ。先生の本にはちゃんと理由を書いてあるから、納得出来るんです。いろいろ治っていますよ。
私が先生の本を初めて読んだのは1992年頃です。本当に長いお付き合いですからね。

笹木  本当に長いですね。色々な本に父のことを書いて下さって、どうもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

渡部 昇一 先生:1930年生まれ 84歳(インタビュー時)

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第29回赤坂見附 前田病院 総院長 前田 昭二 先生 (88歳)

先生の理論通り、ガンは全くありませんでしたからね

笹木  今日はどうもありがとうございます。早速ですが、先生は本がきっかけですか?
父は先生が栄養についての講演をするので、何か質問のお電話をいただいたようなことを言っていましたが・・・・

前田  本だと思いますが、何の本だったかなぁ?
色々先生の本を読んで感心していたということなんです。
僕はあちこち講演をしていましたが、その間、段々に三石理論の信奉者になりました。
でも、恐れ多くて先生に直接お電話なんてしにくかったです。
直接お目にかかったのは、暮れのパーティーですよ。

笹木  父の亡くなった後のパーティーでは、最後の様子をお話しいただきましたし、その後、講演もしていただきました。

前田  そうでしたね。先生の理論通り、ガンは全くありませんでしたからね。ガンが予防できることを実践されていたわけですよ。ガンは予防できないはずだけれど、予防になっていましたね。

笹木  病室で処置をしている間廊下で待っていた時に、先生が父の本を小脇に抱えて「先生とゆっくり話ができますね。」と、笑顔で歩いてこられたんです。
「先生。もう意識が無いんです!」と言ったら、顔色を変えて病室に飛び込んで行かれた姿が目に焼き付いています。
「病院には行きたくない。」の一点張りだったのに、「前田先生の所なら行ってもいいよ。」と、言い出したんです。自分でもこれは普通ではないと思ったのかもしれませんね。
直接お願いしたくて、図々しくご自宅にお電話したんです。
先生はお留守で奥様が「病室の用意をさせておくので、すぐにいらしてください。」と言って下さったので、主人が車を用意している間に吐血したんです。それで、慌てて救急車を呼んで乗った途端に、安心したのか意識が朦朧としてきました。
病室に運ばれて「プロテインを飲まなかったら死んじゃうよ。」と言ったのが最後の言葉でした。
「ご家族の為だけでなく、世の中の人々全ての損失です。助かるように努力はしますが、三日早く来て下されば・・・」と、先生が仰ったんです。無理にでも連れて行けばと残念です。

前田  そうでしたね。あの時は、完全に手遅れで、やはり三石先生も人間でした。本当にもったいなかったですよ。

はっきり覚えているのは、気管切開が必要で、大事を取って手術室でまず気管内挿管をしてから、ゆっくり丁寧に切開したので出血もありませんでした。
でもやっぱり意識は戻らなかったですね。
最終的には脳の中で変化が起きたんでしょうが、長い間かなり重症の糖尿病でしたからね。

笹木  救急車で病院に着いた時には、血糖値がかなり上がっていました。

前田  そうですか。ストレスで上がったんでしょうね。
先生の場合は糖尿病と言っても、鉛中毒ですから、Ⅰ型糖尿病ですね。いわゆる糖尿病はⅡ型なんですけれど、外部からの毒物で発症する場合はⅠ型です。お母さまは同じ鉛中毒でも脳に来たと書いてございましたね。
先生はご自分で言われていた健康管理がちゃんとできていて、身体がウソをついてなかったですね。
何かにつけ先生の理論を紹介させて頂いているけれど、何と言っても“カスケード理論”は素晴らしいです。あれはいろいろな本に引用されていますね。
僕の先輩も本の中で引用していますが、彼はまたメガビタミン主義なんですよ。

笹木  あの頃、ビタミンのことを系統だてて話す人は他にはいませんでしたね。

前田  そうです。当時、ビタミンなんて言葉は別世界の話でしたからね。

笹木  父がビタミンEだ、Cだと言い出した頃、そういうサプリメントはなかったと思います。

前田  外科医になった50年位前に、先輩に「ビタミンCは良いらしいよ。」と、アスコルビン酸を教えてもらい飲み始めました。

笹木  缶には構造式が書いてありましたよね。

前田  見たところ原末はアスピリンと同じように白く光った粉末でしたね。僕の父は明治の人で薬なんて信用できないと言って、風邪を引くとティースプーンでアスピリンをすくって飲んでましたよ(笑)なぜかアスピリンだけは信用してましたね(笑)
今、薬は殆ど錠剤ですが、昔は薬包紙に包んだ粉末でした。そのほうが良いんじゃないのかなぁ?いわゆるさじ加減ですよ。

笹木  身体の大きさで調整できますものね。父も風邪気味になるとアスピリンとメグビーミックス(ビタミンCとB群)とメグビーSを飲んでいました。

前田  三石先生で一番記憶にあるのはビタミンの話とトランス型脂肪酸の話で、これは大変参考になりました。今でこそ本も出ていますが、あの頃は誰も言いませんでしたからね。
アメリカではわりと早くトランス型脂肪酸が禁止になって、特にニューヨーク市の平均寿命が、最近ごく短期間で10年位延びて、アメリカの中で最大の健康都市になっています。

笹木  父の入院中、病院のレストランに行ったら、マーガリンだったんです。それで先生が部屋に来られた時にそれを話したら「そうですか?それはいかん!」って言って、翌朝からバターでした。対応の速さにびっくりしたことを覚えています。
ところで、日本の医療は世界的に見てどうですか?

前田  消化器系は世界一ですね。特に内視鏡下の手術は世界をリードしています。しかし、肥満の人が極端に多いアメリカの人口は日本の2倍で、心臓病羅漢率は日本の数倍あるので、心臓手術の件数は全く違います。従って、循環器系の治療は大変進歩しています。
以前アメリカで、ある術式を何十例もやってみて、これはダメだという頃に、日本ではそれをやり始めたという話を聞きました。あとを追っていますからね。
薬も外国ではすでに何年も使って安全性がわかっても、お役所がなかなか許可しないのは、100%安全な薬がないからですかね?

内視鏡に関して日本はその製造でも、医学的応用でも全ての面で世界をリードしています。
以前僕達がやっていたのは内視鏡による診断でしたが、今は内視鏡による治療の時代になりました。この数十年の進歩には目を見張るものがあります。
内視鏡検査は痛い、苦しいものと思われていましたが、今は違います。
私の病院の内視鏡検査が全く苦しくないのは、ニューヨークにいる新谷弘美先生が考案された前投薬の組み合わせを使用しているからです。そのため、今は全く無痛で検査が受けられるようになりました。

上部消化管の検査は、口から食道に内視鏡が入れば、あとは真っ直ぐ胃ですから誰でも楽にできます。しかし、大腸は肛門から入って20㎝くらいは直腸と言われ真っ直ぐですが、その先は曲がりくねっていて難しかったのですが、新谷先生が大腸内視鏡を全結腸に通すことに初めて成功したのが1968年です。この功績は凄いものです。

笹木  それは新聞で読んだことがあります。

前田  順天堂大学出身の新谷先生が今から数十年前、母校の外科の教授だった義兄を頼って履歴書を持って日本に帰ってきたんです。
日本でも自分の大腸鏡の技術を広めるためです。

彼は腸の襞(ひだ)を引掛けて腸を短くして内視鏡を通すというんですけれど、どうやるのか僕にはよく理解できませんでした(笑)
「7」の字型に腸を短くするんですよ。3メートル位ある腸を半分位に縮めるわけです。有意識下での内視鏡検査は辛いし、動かれると検査は不可能なんですがconscious sedationと言って、“意識のある鎮静”です。鎮静剤と睡眠剤とのうまい組み合わせを使い、「はい終わりました。」と言われた時には意識が戻っています。

例えば局所麻酔でみぞおちをメスで切っても痛くないけれど、ドンと殴られれば痛みを感じます。深部知覚は緊張を取る薬と眠る薬の相乗作用があると、切られても殴られても痛みは感じなくなります。
ですから胃の検査でも僕の病院では口腔にピュッという局所麻酔はしません。sedationの注射だけですよ。表面と深部と二重に麻酔をする必要がないんです。つまり深部知覚を麻痺させれば表面も痛くないわけです。

笹木  それを新谷先生が考えられたんですね?

前田  そうです。手術場ナース達の雑談がヒントになったそうですよ。

笹木  先生は姿勢が良いし、お元気ですね。

前田  いろいろガタが来ていますよ。私の場合一番の問題は心房細動です。電気で切るとか手術で治しようはありますけれど米寿を過ぎたらお医者さんが真面目に診てくれませんから、もうしょうがないですよ(笑)
基本的に人間の寿命はなるようにしかなりません。哺乳類は生物学的な規制により「種」の各々の寿命が決まっています。人間は120歳以上は生きられないからそれまでいかに他人にやさしく、社会に貢献し自らは何時までも自立する気概を持ち続けたいものです。この歳になっての難行苦行は意味ないと思います。
楽しく健康で長生きするんじゃないとね。従って、ビタミンを飲むのも良し、バカ食いしない、大酒は飲まない、と言っても僕は飲みますけれどね。飲みたいものを我慢するのもしゃくですから(笑)

笹木  休肝日はなしですか?

前田  そうですね。肝臓の検査データは良くはないが、悪くもないですからね。心臓の薬を飲むようになって数値が多少悪くなったからどれかが悪いんですよ。何かの副作用ですね。
僕の場合は心臓の血栓が脳に飛ぶと、心原性の脳梗塞ですね。なったら厄介なのでその予防はしています。心房細動に伴って自分では不愉快だなと思うような身体状況もありますけれどね。データ上では大丈夫です。今の所、ガンはないですね。
白内障の手術はしたので、目は良く見えます。
耳は体温計のピッという音が聞こえませんね。加齢に伴う高音障害ですよ。
人の声は聴きやすい人と聞きにくい人がありますね。笹木さんの声は良く聞こえますけれど、女房の声が聞こえないんですよ。(笑)

笹木  お年の割にと言っては失礼だけれど、ものすごくお元気だし、背筋が真っ直ぐで若々しいですもの。いつまでもお元気でいてほしいです。
今日はありがとうございました。

前田 昭二 先生:1927年生まれ 88歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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第28回中島歯科 中島 龍市 先生 (63歳)

ヒトフードを飲んでもらうと骨の形成、成熟が早いのです

笹木  今日はお忙しいところ、お時間を頂きありがとうございます。以前に講演会でお目にかかかりましたね。

中島  そうですね。平成8年10月6日の熊本の講演会に行った時にお会いしました。三石先生が亡くなる前の年です。
90歳過ぎの先生が、しっかりと無駄のない話を理路整然と何も見ないで話されることに驚きました。
なんてお元気なんだろうと思っていたら、翌年の1月17日に誤嚥性肺炎で亡くなったとお聞きして、とても残念でした。

笹木  あの頃は、とても元気でしたからね。父は最後まで原稿は作らず、座りもせずに話していました。
10月は熊本、大阪、東京。11月には那覇、最後が佐久(長野県)でした。熊本の講演会のことはどこでお知りになられたのでしょうか?

中島  メグビーの通信物ですね。
僕は以前から栄養学の勉強をしていたので、平成7年に大学の先輩が「三石巌って知ってる?この人の本を読んでみたら面白いよ」と、紹介されたのが『三石理論による健康自主管理システム』の全5巻だったんです。面白くて一気に読みました。
夢中になって三石巌の世界に入っていったんです。(笑)アッ!三石巌って言っていいんですか?

笹木  はい(笑)

中島  三石先生が第二次世界大戦中に東大の研究室にいた時、教授に「海軍の魚雷を研究してみないか?」と言われたけれど、「戦争は嫌いだから行きません」と断ったら、それからその教授は廊下であっても挨拶をしてくれなくなった、という一文が本の中にあって、僕はそのエピソードに心打たれたんです。

当時、戦争は嫌い、反対だ。と思っていた人はたくさんいたはずです。でも、それを口に出して言うことは、非常に勇気のいることでした。
それを読んで三石巌という人物に興味を持って、先生の他の本も読みました。
読んでいるうちに先生の飲む製品にも興味を覚えて、出版社に問い合わせて、平成8年の9月2日に購入し、10月の講演会に行ったんです。そのわずか3か月後の1月17日に亡くなられたわけですから、本当に残念です。
もっと、いろいろお聞きしたかったですね。

笹木  父と何度か話されていたと思っていましたが、お目にかかったのは、その時だけだったんですね?

中島  そうです。その後、笹木さんとは何度か講演会でお話ししましたよ。

笹木  中島先生はメグビーに患者さんをたくさんご紹介してくださいますけれど、飲んでいると治療の経過に違いがあるのでしょうか?

中島  抜歯をして、インプラントの手術をする場合は違います。抜歯をした後にしっかりとした骨を造るために、手術が決まったらすぐにメグビーのことを話します。もちろん強制はしませんが、説明すると殆どの患者さんはヒトフードを摂ってくださいます。術後は続ける方もおられるし、やめる方もおられますけれども(笑)
ヒトフードをきちんと朝晩飲んでもらうと、抜歯後の骨の形成、成熟が早いのです。
特に身体の弱っている方は、飲んでもらうと免疫力が高くなるのを実感します。
又、インプラントの一次オペで、骨の一部分が足りない時は人工骨を移植しますが、この場合もメグビーを紹介します。

笹木  人工骨は牛の骨だと聞いたことがあるんですが・・・・

中島  さまざまな種類がありますが、私は牛の骨から精製したコラーゲンの顆粒を使っています。人工骨を移植して、6か月後に2次オペをします。
その時に普通は、人工骨はシャーベット状でまだ成熟した骨になっていませんが、朝晩ヒトフードを摂った場合は、硬い成熟した骨になっています。
それを見ると、骨はタンパク質からできていることを実感します。
インプラントにはたくさんの種類があるので、歴史と実績があるものを選ぶべきです。

笹木  そこの棚に置いてあるネジ(インプラントで使うネジの見本)を骨に入れるんですよね。そのネジの太さと長さを見たら、私はちょっと怖いです。インプラントや入れ歯にならないように気を付けなければと。(笑)
私は歯周病になりたくないので半年毎に診て頂いています。

中島  それは素晴らしいことです。フロスはやっていますか?

笹木  フロスと糸ようじを場所によって使い分けています。主治医の先生にはいつも完璧だと言われます。(笑)
面倒だから今日はやめようかな、と思いながらフロスをすると結構歯垢が取れるので、毎日やるようにしています。

中島  それは偉い!そうなんです。そうなれば習慣になって続きますよ。でも、やりなさいと言っても続ける人は3人に1人です。中島歯科では、フロスの仕方はしっかり指導します。歯ブラシだけではどうしても歯の間はきれいになりませんからね。歯と歯が接触している所が虫歯(コンタクトカリエス)になりやすいので、毎日のフロスが大切なんです。
一番奥の歯の向こう側もやってくださいね。これが肝心です。(笑)中島歯科のフロスホルダー(フロスの補助用具)は世界中探してやっと見つけて、アメリカから個人輸入していて、大変使いやすいものです。
最近、三歳児検診では虫歯のある子はほとんどいません。でも、20歳前後になるとコンタクトカリエスがたくさん見つかるんです。
今の青少年は歯が弱いですね。“この虫歯は毎日フロスをしていたらできなかったのになぁ”と、思いながら治療するのがとても残念です。
昔の日本は貧しくてお菓子はほとんど食べられないし、農薬、化学肥料、食品添加物に汚染されていない食事をしてました。今はジャンクフードをよく食べるし、食事も一見豊かに見えますが、その実は貧しくて歯が弱くなっているので、子供でもフロスが必要になってきています。さらに肉体的、精神的にも弱くなっています。
永久歯は誕生時から8歳までに作られるので、それまでの食生活が重要です。そして、12歳で生え揃います。
歯は健康の基本ですね。神経を抜いた歯の少ない人や歯がたくさん残っている人はお年寄りでも元気です。診察室を歩く姿が違います。

笹木  それは大変(笑)。メグビーでは、お昼休みによく歯の話になるんです。毎日のフロスが必要なことも社員に伝えますね。

中島  皆さんに歯を抜かないように、歯の神経は抜かないようにと言って下さい。(笑)

笹木  私、歯周病や虫歯はないんですけれど、神経を抜いた歯は1本あるんです。

中島  その年齢で1本は優秀ですよ。Wonderful!!
アメリカでは歯の良いことがステイタスですから、意識の高い人はみんなフロスをします。フロスは毎食後の必要はなく、一日に1回で良いんです。口腔内は36.5度で細菌が非常に繁殖しやすい温度と豊富な栄養が揃っています。細菌の数が24時間で虫歯を作る危険域まで一直線に増えるので、24時間以内に一度フロスをすれば大丈夫なのです。
歯ブラシは一日に2回程度してください。

笹木  歯が良いから健康なんですか?それとも健康だから歯が良いのでしょうか?

中島  それは鶏と卵の関係ですね。ただ、歯が悪ければ軟らかいものしか食べられませんよね。咀嚼によって2本ある総頸動脈の血流量が35~60%増えます。
良く噛む人は脳にたくさん血液が入って行きますが、歯が悪かったり入れ歯の調子が悪く良く噛めない場合は、脳に行く血液が少なくなります。そういう人はボケやすいですね。
一口30回は噛め、と言いますけれど、現実にはなかなか難しいですよ。でも、20回位噛めばかなり違うと思いますよ。

笹木  先生に送って頂いた資料に歯周病(歯槽膿漏)がいろいろな病気の原因になると書かれていたので、そのことをお聞きしたいのですが。

中島  歯周病ではなくて、歯原病ですね。
歯周病は、動脈硬化を起こす原因になります。つまり脳梗塞、心筋梗塞です。糖尿病の増悪と低体重児の出産も歯周病から起きることは広く周知されています。
歯原病というのは、神経を抜いた歯や虫歯などで神経が死んだ歯が、ありとあらゆる全身の病気を引き起こすことです。1923年にアメリカの歯科医プライス博士が著作『歯の感染症』で発表しています。大きな虫歯の場合に抜歯しか治療方法がなかった100年も前に、博士は神経を抜く治療をして歯を残しているんです。しかも今と同じレベルの治療をしていたんです!
博士は一粒種の息子さんを虫歯が原因の心臓病で亡くしたことに大変なショックを受け、歯の神経を抜くことが病気の原因のひとつではないか、という疑問を持ったわけです。
それでアメリカ歯科医師会が費用も研究室も提供し、医師、歯科医師、科学者60人位を動員し、博士は25年間も研究したんです。
『歯の感染症』には、リウマチ患者の神経を抜いた歯を抜歯するとリウマチが治り、その歯を移植されたウサギはリウマチに、心臓病の患者の神経を抜いた歯を抜歯すると心臓病が治り、その歯を移植されたウサギが心臓病になったことなどが書いてあります。
ウサギを5000羽も使って、実験したんです。

笹木  それはどういうことなんですか?

中島  神経を抜いた歯の象牙質の中の象牙細管に、細菌は100%生き残っています。
歯原病というのは、その神経を抜いた歯が自己免疫疾患をはじめとするあらゆる病気の原因になるということなんです。
だから歯の神経を抜いてはいけない。現在では3Mix-MPのような優れた治療法があります。これは日本人が考えた素晴らしい治療法で、虫歯の自然治癒と神経を抜く治療や神経を抜いた歯の再治療に絶大な効果があります。
あとは、日々の歯の清掃(歯ブラシ、フロス、歯間ブラシ)と定期検診が大切になります。

笹木  インプラントにしても虫歯の治療にしても、今の歯科治療はとても進歩しているんですね。 今日は歯についていろいろ勉強させて頂き、どうもありがとうございました。

中島 龍市 様:1952年生まれ 63歳(インタビュー時)

※個人の感想であり、製品の効能を確約するものではありません

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